2008年02月07日

神仏は妄想である 56

わが西側の政治家たちはR(宗教)という単語に言及するのを避け、その代わりに、自分たちの戦争を「テロ」との戦いとして性格づけており、まるでテロが独特の意志や心をもつ一種の霊ないし力であるかのようである。あるいは、テロリストを純粋な「悪」に衝き動かされた人間として性格づける。しかし彼らは悪によって衝き動かされているわけではない。そう考えるようどれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
ドーキンス

彼らは、正義であると、信じるのである。
つまり、それは、宗教が語りかけることを、忠実に追求する。
問題は、何か。
どんな、悪事も、宗教の信条に従うということで、彼らの中では、肯定される。

世界に、正義の数は、宗教の数だけあるということだ。
近代法、云々の問題ではないということだ。
国家の法より、宗教の教え、教義を、主として、行動するのである。

ここで、注意深く、考える必要がある。
人間は、知性と、感性により、理性によって、行動する存在である。
しっかりと、その教育が、なされていれば、バランス良く、正義の、有り様を、考えることが、出来る者である。

しかし、宗教は、その人間に、早いうちから、子供の、柔軟な、脳の中に、ある一つの定義を、植えつけるのである。そして、それを、至上命令の如くに、教える。

人間の尊厳と、自由とは、何か。

ドーキンスは、続ける。

彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである。彼らが自らの行為を正しいと感じるのは、何らかの歪んだ性格のせいではないし、悪魔に取り憑かれたせいでもなく、彼らが生まれ落ちたときから、全面的かつ疑いを抱くことのない信仰をもつように育てられてきたからなのである。

恐るべき、洗脳である。
しかし、それを、宗教教育と、掲げて、善として、教える。
また、宗教教育の必要性を、善として、認める。
日本の場合も、宗教教育により、人間性を、高めると、考える人がいる。
宗教法人が、経営する、学校は、宣教、布教を、柱に、掲げて、行われる。

キリスト教精神に、基づきとか、仏法に基づきとか、それが、人間性を、あたかも、高める如くに、喧伝される。

長年、大学にて、キリスト教を講義してきたという、牧師、教授の、回想録を、読んで、驚いたことがある。
信仰に生きることの、大切さと、人間性を、聖書に基づいて、教えたこと、そして、学生たちが、聖書の神への認識を深めたことを、誇っている。
そこには、批判の精神、つまり、知性と、感性を養い、理性により、行動する人間を、育てたのではないということ。
キリスト教の神を、拝む人を、養成することに、賭けた人生であることを、言うのである。

悪意ある霊を、神と掲げる聖書の、霊を、拝む人を、養成できたことを、誇るのである。

日本人ならば、自分が、信じているモノを、人に、勧める、あるいは、押し付けるということは、基本的に、僭越行為であると、認識する、能力を、持つ。
それは、極めて、個人的な行為であると、知っている。

私の家の神があるならば、そよ様の家の神もあると、知っている。

郷に入れは、郷に入り、粛々と、他人の信仰に、抵抗せず、無視しない程度に、従う作法がある。

それが、実に、理性的な行為なのである。

―――これらの人々は、自分たちが信じていると言うことを実際に信じているということである。宿題として持ち帰るべきメッセージは、宗教上の過激主義を責めるーーーあたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種ででもあるかのようにーーーのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
ドーキンス

ヴォルテールがはるか昔に正しく理解していたように、「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残忍な行為にかかわるようにさせることができる」バートランド・ラッセルもそうだった。「多くの人間は、考えるよりも先に死んでしまうだろう。実際、彼らはそうしている」。

宗教の布教は、実に、暴力的である。精神的な暴力である。

キリスト教は、罪意識を、強調して、人を追いつめたところで、神の救いを説く。
日本の新興宗教の多くは、現世利益を強調する。

病にある人や、心弱い人を、狙って、布教活動をしていた、多くの宗教を、知っている。

兎に角、良くなる、回復する、開運する、道が開ける、運勢が向上する、ありとあらゆる、甘言を用いて、勧誘する。
天理、金光、大本はじめ、仏教系の新興宗教等々、更に、歪な新興宗教、科学的であると、喧伝する、新宗教、教祖の偽の、霊能力を全開しての、宗教とは、言えない、稚拙な教義を持つ新宗教等々。

人の弱みに、付け込むという、実に、卑劣な、方法を、持って、差し出がましく、やって来る。
勿論、それに、騙される人多数。

甚だしいのは、最初から、戦う姿勢で、論破するという、折伏などと称する、狂信の新興宗教もある。

私は、歴史上、仏陀が、最も宗教的人間だと、知っている。
それは、生き方指導、生活指導を、説いて、地に足のついた、人間愛を、行為したからである。
仏という、オリジナルを、想定して、それを、目標に、生き方指導を、繰り返した。実に、平和的に、である。
それは、人間に対する、深い洞察力である。
限りある、人生を、味わい深く生きるべく、心というものの、有り様を、捉えて、生きる姿勢である。

仏陀を、支持出来る、大きな理由は、奇跡を、行わなかったからである。

更に、ここが、孔子との、分岐点であるが、鬼神を知らない孔子であったが、仏陀は、知っても、それを、知る必要を、説くことがなかった。
霊と、霊界についても、触れなかった。

それなのに、その生きる姿勢に、人は、心曳かれて、仏陀の元に集ったという、事実である。

人からの、恨みも、憎しみも、受け取らないという、平和的行為を持って、人の心に、語り掛けた。
それは、宗教行為ではなく、宗教的行為であり、伝統と、なった。
仏教とは、伝統なのである。
いずれ、また、書くので、以下省略する。

宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるという理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは、オサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それそこが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけではなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。
ドーキンス

加えて、私の霊学の立場は、この世の宗教の信念というものは、霊界とは、全く関係ないということである。

以下省略。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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