2008年02月05日

神仏は妄想である 54

彼らにとって、問題ははるかに単純である。胚は「赤ん坊」であり、それを殺すのは殺人である、それだけのことだ。これで議論はおしまい。
ドーキンス

しかし、この絶対主義的な立場をとるとするなら、いろいろな問題が引き起こされることになる。手始めに、胚幹細胞を使った研究は、医科学にとって大きな可能性を含んでいるにもかかわらず止めさせなければならない。なぜなら、それは胚細胞の死をともなうからである。社会がすでに人工授精を受け入れていることを考えてみれば、その一貫性のなさは明らかだろう。

つまり、受精卵を、十数個も作るが、使用するのは、一個か二個である。他の受精卵は、殺される、という、表現が出来る。

さらに、アホなことに、その、受精卵を救えという、絶対主義的立場を取る者も、出始めたという。

強迫神経症である。

帰結主義者あるいは功利主義者なら、おそらくこれとは非常に異なったやり方で、中絶問題をアプローチするだろうーーーすなはち、苦しみの軽重を判定するのである。胚(胎児)は苦しむだろうか(おそらく、神経系ができる以前に中絶されればそうではないだろう。神経系ができているだけの月齢に達していてさえ、たとえば屠畜場の成牛ほども苦しまないことは確かだろう)? 妊婦、あるいはその家族は、もし彼女が中絶をしなければ苦しむだろうか? その可能性はきわめて高い。そしていずれにせよ、胚が神経系を欠いていることを考えれば、母親のよく発達した神経系のほうをとるべきではないだろうか?

絶対主義的宗教の、感情論によって、多くの無明が、まかり通るという、実際を、見るものである。

胚をわざわざ「赤ん坊」と呼び、それを守るために殺人をする用意のある人々がいる。
ドーキンス

胚は、殺すな、しかし、胚を殺す者は、殺すというのだから、話に、ならないのである。

人道的とか、道徳的とか、全く話しにならない、絶対主義的宗教の、有様である。

ドーハンスは、彼らの矛盾を、徹底的に、炙り出している。

アメリカは、キリスト教原理主義によって、中絶の反対、同性愛の、反対、等々、聖書主義にのっとって、判定する。
そして、それを、国家意識にまでも、高めようとしている。

そして、同じように、聖書主義にのっとっている、イスラムも、そうであるが、両者が、決して、和解しないのは、何故か。
不思議である。

問題の核は、聖書絶対主義にあるのだ。

さらに、イスラムは、イスラム帝国を、キリスト教徒は、世界のキリスト教制覇である。

妊娠中絶の、問題は、単なる、一つの、方法である。

そして、それを、誰が指揮するのか。
宗教指導者である。
彼らの、胸先三寸で、決まる。

宗教上の絶対主義がもつ負の側面を明らかにするなかで私は、中絶クリニックを爆破したアメリカのキリスト教徒と、アフガニスタンのタリバンに言及した。彼らの、とくに女性に対する一連の残虐行為については、あまりの痛ましさゆえに列挙することができなかった。
ドーキンス

聖戦主義者を突き崩す最良の方法は、イスラム教徒女性の反乱を引き起こすことだ。
ロンドン・インディペンデント紙の、コラムニスト、ジョアン・ハリ

旧約聖書の、女性蔑視は、半端ではない。
家畜以下の、存在である。

人間とは、男のことを言うのである。
つまり、女は、人間もどき、ということになる。
その、女性蔑視は、ただ事ではない。

勿論、ウーマンリブ行為などは、完全に、皆殺しにあうだろう。

「旧約聖書」の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である。嫉妬深くて、そのことを自慢している。けちくさく、不当で、容赦のない支配魔。執念深く、血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをするいじめっ子だ。
神がいるという仮説 より

日本のキリスト教、作家たちは、この、旧約聖書の神を、神として、受け入れ、それぞれが、旧約聖書について、非常に好意的に、書いているという、驚きである。
さらに、熱心に、その神に、祈りを、捧げるという、仰天である。
更に、驚くことは、日本の天照大神などを、神話、御伽噺の、神様と、信じきっていることである。しまいに、日本には、神不在などという、馬鹿げたことを、平然として言うという、様である。

日本に、このような、変な神観念が、なかったことが、実に、幸いであった。

旧約聖書には、近親相姦など、平然として行う人物が、登場するという、驚きもある。

兎に角、野蛮であるということは、疑い得ない。
それを、信奉している、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。

何度も言うが、そこにある、霊性というものを、考える時に、それは、魔界からのものと、判断する以外にないのである。

ヨブ記という、章があるが、神への信仰の篤い、ヨブの話であるが、どうみても、サドマゾなのである。
苦しみを与える神、それを、一つ一つ、耐え忍ぶヨブ、そして、最後の最後に、祈りは、聞き入れられるという、オチである。

それは、信仰深い者の、話なのであるかと、疑うが、そのように、解釈するという、教会の教えである。
このような、感受性を持つ、民族というのは、矢張り、生きた動物を、生け贄として、神に捧げる民族の、感受性なのである。
ちなみに、日本には、生き血を流すような、生け贄の儀式は、無い。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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