2008年02月03日

神仏は妄想である 52

タリバン支配下のアフガニスタンでは、同性愛に対する正式な罰則は、囚人の体の上に壁を倒して生き埋めにするという、趣味のいい方法による処刑だった。こうして罰せられる、同性愛という「犯罪」それ自体は個人的な行為で、成人どうしによって合意の上でおこなわれ、ほかの誰にもいかなる危害も与えないものである。これもまた、宗教絶対主義の古典的な特徴といえよう。
ドーキンス

英国でも、同性愛は、1967年まで、犯罪的行為だった。

宗教ほど、差別を好むものはない。
同性愛の、問題は、象徴である。
兎に角、宗教は、人を差別する。
その最もたるものは、他宗教に対してである。

偏見と、誤解に満ちて、差別を、繰り返すという、愚劣。

イスラムの、ムハンマドが、たまたま、好色で、何人の女を、妻にしたというだけである。それで、異性愛は、良し、しかし、同性愛は、駄目ということである。
旧約聖書の、神は、生めよ増やせと、一夫多妻を奨励する。
勿論、甚だしい、男尊女卑である。

女は、男の付属物であり、家畜と、同じように、勘定した。

同性愛を、禁じた、キリスト教国で、同性愛が、実に盛んであるということ、皮肉である。

歴史上、同性愛で、結ばれた、軍隊が、最も強いということが、知られている。
例えば、アレクサンダー大王である。
支配者が、恐れることは、同性愛の団体が、最強になることを、知っている。それらが、謀反を起こすと、国が転覆することもある。

「アメリカのタリバン」の同性愛に対する態度も、宗教的絶対主義を典型的に表すものと言える。
ドーキンス

リバテイー大学の設立者、ジェリー・ファルウェル牧師の話に耳を傾けてみよう。「エイズは単に同性愛者に対する神の懲罰というだけではない。それは同性愛に寛容な社会に対する懲罰なのだ」こういう類の人々について、私がまず気づくのは、彼らの見上げたキリスト教的慈愛である。

道徳を狭い宗教的観点のみ理解し、同じ絶対主義的な信仰を共有しないどんな人間からも、脅かされるように感じるような種類の・・・
ドーキンス

私見である。
エイズという、病を、同性愛に、結びつけて、差別の対象とする、意欲のある者たちが、いるということである。
それでは、鳥インフルエンザを、誰のせいにするのか。

神の怒りによって、起こった病と、言うのであろうか。

宗教指導者は、霊能者と同じで、何とでも、言う。
すべて、主観であるから、何とでも、言える。
実に、馬鹿馬鹿しい。

「キリスト教徒の政治活動を支持するカトリック教徒」という団体の会長であるゲイリー・ポッターはこんなことを述べている。「キリスト教徒がこの国の支配権を得た暁には、悪の教会はなくなり、ポルノが自由に配布されることも、同性愛者の権利について語られることもなくなるであろう。多数派のキリスト教徒が権力を得たのちは、多元主義は不道徳で邪悪なものとみなされるようになり、国家は、誰に対してであれ悪をなす権利を許さないであろう」。「悪」は、この引用できわめて明らかなように、人に悪い結果をもたらす行為をおこなうことを意味していない。それは「多数派のキリスト教徒」の好みではない私的個人の思考や行動を意味しているのである。

恐るべき、傲慢極まりない、宗教的独善である。
こういうことを、平然として、述べることが、出来るという、アメリカである。

好みというが、それも、教えられたものであり、個人的意見ではない。
ある、一定の指導者の、好みを、全員の、好みにするというものである。

すべてを、神の意にという信仰は、実は、すべてを、宗教指導者に、託すという、自己放棄を言うのである。
これは、恐ろしい、混迷である。

この世の、迷いは、宗教が、与える教義である。

更に、驚くべきことは、神の代理として、人を裁くという、暴挙である。

ウェスト・パプテスト教会のフレッド・フェルプス牧師も、同性愛に対して強迫観念的な嫌悪をもつ有力な説教師の一人である。マーティン・ルーサー・キングの未亡人が死んだとき、フレッド牧師は彼女の葬儀を阻止するピケを組織し、こう宣言した。「神はゲイおよびゲイを容認する人間を憎む! ゆえに、神は憎むべきコレッタ・スコット・キングをいまや地獄の業火で責めさいなんでおり、そこで苦しみはけっして止まず、火はけっして消えず、彼女の苦しみの煙は永遠に立ち上りつづけるだろう」。

フェルプスは、1991年以来、米国、カナダ、ヨルダンおよびイラクで、「エイズを与えた髪に感謝しよう」といったスローガンを掲げて、二万二千回の反同性愛デモを組織している。
さらに、特定の、死亡した、同性愛者が地獄で焼かれる日数が、自動計算機で、表示される、サイトを作っているという。

これは、狂信である。
完全に、魔神に、やられている。

ちなみに、私の経験と、心理学的考察によれば、同性愛を、嫌悪する、その強さほど、その人が、同性愛に傾くという、事実がある。
我が内にある、同性愛傾向を、極端に恐れていると、解釈できるのだ。

ここで、言いたいことは、このように、傲慢に成るという、事実である。
何故か。
信じる者は、強くなるが、それは、傲慢になるということと、同じだということである。

実に、野蛮でもある。
死者を、裁くという行為を、平然として出来るのである。死者を裁くのは、神のみであると、彼らは、言っているはずであるが、それを、忘れるほど、傲慢に成る。

同性愛に対する態度は、宗教的な信念によって吹き込まれた道徳心がどのようなものであるかについて、多くのことを明らかにしてくれる。同じように示唆に富んだ実例を提供してくれるのが、妊娠中絶と人間の命の尊厳というテーマだ。
ドーキンス



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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