2008年02月01日

神仏は妄想である 50

科学者として、私が原理主義的な宗教を敵視するのは、それが科学的な営為を積極的に堕落させるからである。それは私たちに、おまえは心変わりしてはいけない、知ることが可能な興味深い事柄を知ろうと思ってはいけないと教える。そして科学を破壊し、知力を減退させるのだ。
ドーキンス

更に、悲劇的な、天才科学者の、話が載っている。
結果的に、聖書の、毒に、負けて、原理主義的行為により、夢と希望と、科学、証拠、そして、理性を投げ捨てたのである。

ドーキンスは、言う。
彼の、なすべきは聖書を投げ捨てることだけだった。と。

原理主義的な宗教は、おびただしい数の、無辜の、善意で情熱のある若者の心を荒廃させることに専心している。非原理主義的で「分別のある」宗教は、そんなことをしていないのかもしれない。しかし、そうした宗教にしても、子供たちがきわめて幼いときから、「疑うことのない無条件の信仰が美徳である」と教えることによって、原理主義者に好都合な世界をつくっているのである。

原理主義とは、知性を捨て、感性を鈍らせ、そして、理性をなき物にするのである。

単なる、作り話に、すべてを、懸けるという、愚劣さである。

それは、あまりにも、稚拙で、愚かな行為であるが、本人たちは、全く意に介さず、黙々と、進む。
偏狭というより、魔の世界へ、進む。
霊学から、言えば、魔界に、進むのである。

この世に、絶対ということは、無いと、言う、イエス・キリストの言葉さえも、神のみは、絶対であるという、解釈に立って、原理的教義となる。

この世に絶対的なものは、無いとは、神というものも、絶対という観念は無いということである。
しかし、このように、書くこと自体が、観念である。
だから、神という言葉自体に、どうしようもない観念まみれの、観念がつくということである。
日本人の、生活観の中には、宗教以前に、自然というものが、厳然としてあった。
それは、観念ではない。
しかし、言わせると、アニミズムと言われる。精霊信仰というらしいが、それも、別物である。
在って、在る物、自然との、共生であり、共感である。

それを、アニミズムという、言葉、つまり、観念を作るという、欧米の思想である。

日本人は、それ、アニミズムを突き切っていた。
自然の物に、精霊ではない。
自然の物、そのものが、本質である。

その物が、本質であるという、物の見方は、世界広しといえども、日本だけである。

精霊ではなく、物に、心が、着くと、観たのである。
つまり、物は、心に相当した。

目の前に在る物は、心である。と、観た。
その心に、対座したのが、古神道と言われる所作である。
所作とは、作法である。

目の前の木は、私の心である。
そうして、その心である、木に対して、注意を払い、特別な場を作り、結界という場である、それを、張り、褒め称える言葉を、述べた。祝詞である。
我に、我を、褒め称えた。

古神道の、所作は、皆、ここから、生まれでたものである。

自然は、我であるから、我の如くに、大切にするのである。

日本人が、持つ自然に対する考え方が、他民族と、違うのは、それである。
勿論、今は、それが、廃って、久しい。
回復を、願うが、果たして、それを、教え伝えるべき人は、いるのか、私には、解らない。

最後に、自然に帰結する、日本人には、原理主義というものが無い。あるとすれば、自然のみであり、それは、尽きることの無い、自然であるから、すべてが、自然に隠れてしまうのである。
死を、隠れると、看破した、日本人である。
それを、宗教観と、言うなかれ、それは、自然観なのである。
日本人には、自然観のみしかない。

万葉集には、恋の歌が、八割である。
それは、恋が、性という、人間の自然と、直通していたからである。
性が、人間の自然であったことを、教えるものである。

神道という言葉さえなかった時、仏教、仏の道と、対して、果たして、我が国の、ものを、何と言うのかと、考えた。
孝徳天皇が、初めて、神の道、神道という言葉を使用したのが、始まりである。
仏も、異国の神として、取り扱った。
そして、我が国の神である。
実際、そんな意識もなかった。

この国に、以前からある、所作を、呼ぶために、唯神、かんながら、神の道を、名乗ったのである。

神の国という言葉も、鎌倉時代を、待たなければならなかったのである。
それ以前は、そんな意識も無い。

自然に対する所作を、改めて、云々する必要がなかったのである。
仏の観念が、そのように、神観念を生ませることとなる。

日本語も、兎も角、日本人の精神というものも、純粋培養されたものである。
島国であったから、それが、可能だった。
それを、最大限に生かすことが、日本の再生と、回復を、促す。

それは、日本の原理主義に陥ることではない。
世界に向けて、日本の精神の有り様を、提示することである。
そこで、共感を得られることが、世界に貢献することになる。

日本人の自然観が、偏狭な、宗教観、宗教感覚を、緩和するからだ。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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