2008年01月28日

神仏は妄想である 49

宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生み出される最終産物ではないのだ。聖典こそ真理であり、もし証拠がそれと矛盾するように思えるなら、捨て去るべきはその証拠であって、聖典ではない。それに対して、私が科学者として真実だと考えること(たとえば進化)は、聖典を読んだからではなく、証拠について調査・研究を行った上で、真実だとみなしているわけである。
神は妄想である。第8章 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか? より

ドーキンスは、謙虚である。
真実だとみなしているわけである。と、言う。
つまり、それが、覆された時には、それを、認めるということだ。

科学は、そのように、進んで、今まで、やってきた。
この、謙虚さがなければ、科学も、宗教と、同じになる。

証拠を捨てて、聖典を取るという行為は、単なる、拘りである。
つまり、拘りが、信仰である。

科学書がまちがっているときには、最後に誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。しかしそういうことは、聖典に関しては明らかに起こりえない。
ドーキンス

あるいは、新しい発見によって、聖典の解釈が、変わるということも、有り得る。しかし、聖典を、変えるということは、有り得ない。

どうしたって、都合の良いように、解釈する。
支配しやすいように、解釈すると、言う。
支配者という、権威ある者の、胸先三寸で、決まる。

私たちは、証拠が支持しているという理由で進化を信じるのであり、もし、それを反証するような新しい証拠が出されれば、一晩で放棄することになるだろう。本物の原理主義者はそんなことを言ったりしないものだ。
ドーキンス

一晩で、放棄するという。
科学は、このような人々に、支えられて、進歩してきた。
それは、まさに、知性である。

私が進化というものに寄せる信念は原理主義的ではなく、信仰でもない。なぜなら、もししかるべき証拠が出現したとすれば、自分は心を変える。しかも喜んでそうするだろうということを知っている。
ドーキンスは、このように、何度も、繰り返し言う。
これ、知性と、言う。

犯罪事件の捜査が、原理主義だったら、捜査は、進まない。
兎に角、犯人は、あいつだと、決定する。そして、お前が、犯人に決まっていると、言うのである。暴挙であろう。
証拠が、出て、はじめて、犯人を特定するのである。

論より証拠、とは、諺であるが、実に、その通りである。

仏教では、無常観というものを、大切にするが、実に、それに従うことはない。
無常観とは、考え方も、やり方も、流転してゆくということである。
無常観を、単に、人間が年を取り、死んでゆくという、安易な、感覚だけで、捉えているとしたら、大きな間違いである。

この世は、変化しつづけるというのである。

この変化を、捉える目を、知性という。そして、それは、感性に支えられる。更に、理性が、それを、認識させる。

千年も、二千年も、同じであるはずがない。

ただ今は、更に、進化が進んでいる。

原理主義は、千年前も、二千年前も、同じだというのである。そんなことは、有り得ない。

理解しやすい、事柄で言えば、現代の葬式は、次第に、僧侶を呼ぶ事のない、友人葬や、宗教色をとったものになっている。
ここで、葬儀の歴史を書くスペースはねないが、葬儀というものも、変転しているのである。
無宗教の葬儀が多くなったことについて、宗教家は、手出し出来ないのである。

すでに、葬儀屋が、主導権を握り、勿論、商売であから、どんどんと、客のニーズに合わせるようになる。
嘘偽りの、戒名などという、アホな、形式などは、最早、見抜かれている。

伊勢に、出掛けた時に、タクシー運転手は、言った。
もう、神道で、葬式をする人が大半だと。つまり、仏教では、訳のわからないお金が、かかるばかりだと。
伊勢とは、伊勢神宮の町である。

祖霊社という、神社があり、そこが、葬式を仕切っている。

亡くなれば、すべて、命、ミコトと、呼ばれて、葬儀が行われる。
死後、得度、つまり、仏弟子というような、戒名など、いらない。ということである。

友人の知り合いが、母親の戒名料に、400万円と言われた。
長い名前である。
そんな名前で、呼ばれても、霊界入りした人は、反応しない。
誰の名前を呼んでいるのかと、思うだけである。
実に、馬鹿馬鹿しいことをする。

仏陀は、一言も、そのようなことを言わない。

何を根拠に、戒名など、つけるのか。
私は、戒名についての、書籍を何冊も、読んでみたが、全く、意味の無い、説明である。
つまり、仏教、それも、大乗仏教の、亜流の亜流の、原理主義的、説明である。
話にならない。

もっとも、簡単な説明は、死者に対する、礼儀である。死者の自覚を促すものである。
その程度で、いい。
それならば、いくらでも、方法はある。

生前は、仏教など、何も知らない人が、突然、死後、長い仏弟子の名前を、つけられても、反応しないばかりか、変な、仏教霊界などに、輸送されては、たまったものではない。

宗教の霊界は、この世と、あの世の、隙間にある世界で、実に、おどろおどろしい。

そんな、世界から、開放されて、エネルギー満ち溢れる霊界に、入るべきである。

霊界とは、次元の違いで、数学では、証明済みである。
次に、物理学、量子力学によって、解明される日が近い。

霊能者も、びっくりの、霊界証明が、科学でなされる。
皆々、いかに、偽者かが、解る。

そうすると、ずるい宗教家たちは、そうなると、そうです、そうです、それが、お釈迦様が、言っていたことですと、なる。
どうにも、手の付けられない、ヤクザたちである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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