2008年01月23日

神仏は妄想である 44

多くの人は、自分が神のーーーあるいは天使や聖母のーーー姿をその目で見たことがあるという理由で神を信じている。あるいは自分の頭のなかで神が語りかけたから、神を信じる。この個人的な体験をもつとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、もっとも説得力がある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、もっとも説得力のないものである。

新興宗教系の、体験談に、そのようなものが、多々ある。
要するに、奇跡的なことである。

何も、普段は、考えなかったが、あることが、きっかけで、それは、多分に、辛い時、問題が起こる時、大きな悩みに遭遇した時である。
その時、その教えに出会い、開眼したというものである。
それらは、新興宗教の、雑誌に溢れている。

気づきである。
全く、そんなものを、信じていなかったという人に多い。
溢れる涙で、それを、感得したという、体験である。

すべてが、好転し始めたという。

心理学では、そういう時に、そういうモノに逢うように、自分が、仕向けることを、知っている。

気づきたいがために、自分で、準備するのである。
しかし、それを、神や仏の御蔭だと、信じるのである。
少しはがりの、知性があれば、そんなことはなど、無いのである。

聖典を唱えただけで、病が、癒えたという。
心理的効果であるが、神や仏の、せいにするという。
そして、その指導者である。
そこに、漬け込むのである。

あなたは、自分は直接の「神体験」があるとおっしゃいますか? 確かに、ピンクのゾウを見たという人はたまにいらっしゃるが、だからといってあなたは、別に何の感銘も受けないだろう。ヨークシャーの切り裂き魔、ピーター・サトクリフは、女性を殺すように告げるイエスの声をはっきり聞き、彼は終身刑に囚われることになった。ジュージ・W・ブッシュは神にイラクに侵略するように告げられたと言っている。(神が大量破壊兵器が存在しないという啓示を与えるほど親切ではなかつたのは残念である)。精神病院にいる人間は、自分がナポレオンや、チャールズ・チャップリンだとか、世界全体が自分に陰謀を企てているとか、あるいは自分の考えを他人の頭のなかに吹き込むことができると思い込んでいる。私たちは彼らに調子を合わせるが、彼らの心の内に啓示された信念を真面目には受け取らない。その主たる理由は、彼らと同じ体験を共有する人が多くいないとこである。宗教的な体験がそれと異なるのは、そういう体験をしたと主張する人間が無数にいるという点だけだ。神経生物学者のサム・ハリスが「信仰の終焉」で次のように書いたとしても、それほど過激に皮肉な言い方というわけではなかった。
神の存在を支持する論証 より

合理的に正当化できるような根拠がないあれやこれやの信念をもつ人々を指す名称はいくつもある。そうした人々の信念が極端にありふれたものであるとき、私たちはそれを「宗教的」と呼ぶ。そうでないときには、おそらく「狂気」、「精神病的」、あるいは「妄想的」・・・と呼ばれる。明らかに、大勢いれば正気とみなされるのだ。だが、私たちの社会において、宇宙の創造主があなたの考えに耳を傾けることができると信じるのは正常であるとみなされるが、「雨音が寝室の窓を叩く音は、神がモールス信号で交信してきているのだ」と信じるのが精神の病の現れとされるのは、単なる歴史のめぐりあわせにすぎない。だから、宗教的な人間一般が狂っているとは言わないが、彼らの核心にある信念はまちがいなく狂っている。

私は、いつも、奇跡を起こすものは、魔界関与であると言う。
私の、霊学である。

これさえも、ドーキンスに言わせると、
人間の脳は第一級のシュミレーション・ソフトウェアを走らせている。
と、言われるだろう。

信じるように、信念が導くのである。

宗教団体に、入会してから、どんどんと、事が、好転しましたという、体験談を、多く聞く。それは、また、そう言う人のみに、語らせるからだ。
何も、変化しない人は、それの、百倍、千倍いる。

病が、癒えても、人は、死ぬ。

先祖供養を、一生懸命にしても、いつも、うだつが上がらない人も、大勢いる。しかし、先祖供養で、良くなったという人が、一人でもいると、それは、大多数になるという、宗教の宣伝である。

何度も言うことだか、感謝と、報恩という行為を、宗教によってしか、得られない人は、実に、憐れである。
それは、知性と、感性によって、培われるべきものである。

後に、ドーキンスは、道徳についても、語る。
宗教によって、人間が道徳的になるのではないという、論証である。

神や仏によって、善なる行為をするという、考え方は、実に、偽善である。
知性と、感性により、そして、理性が、それを成す時、人間は、人間として、人間らしく生きるのである。
それは、人間の社会性である。
それは、人間の歴史である。

人間の霊性というものを、宗教によって、得るのではなく、知性と感性によって、得ることが、21世紀の、救いになる。
宗教では、最早、限界である。
何となれば、宗教という、枠では、新しい世紀を生き延びることが、できないからである。

科学と協調した、宗教観というものを、宗教は、決して、持つことが出来ないのである。
科学的ではない。科学である。

よく、仏教の教えが、科学を超えているという、アホなことを言う者がいるが、それは、事後予言と、同じなのである。
要するに、科学の成果に、こじつけているだけてである。

般若心経は、科学的であるというようなことを言う人がいるが、それは、般若心経の、言葉、それも、漢訳された言葉に、こじつけるのである。
それを、また、アホな人は、頷いて、有り難がるという、体である。

大乗の教えの宇宙観が、すでに、書かれているという、アホもいる。
違う。それは、科学が、それを、知ることが出来たゆえに、それに、こじつけて、説得しているだけである。大乗を、創作した者は、単に、妄想で、書いたのみである。
そう、実に、大げさな、表現である。

一ミリのものを、百メートルという、表現をするだけである。
それを、すでに、仏教では、知っていたという、言い方をするという、愚劣である。

事後予言といったが、それ以上でも、以下でもない。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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