2008年01月11日

神仏は妄想である 30

宗教とは、別だが、霊感、霊能というものに、ついて言う。

まず、大半が、嘘である。それは、主観である。客観性を持たない。つまり、信じることしか、出来ない。
また、それは、魔界や、悪魔から、出るもの多い。
悪魔とは、一種の妄想である。

霊感があるというのは、特殊な、感覚があるというもので、風雅を、感じるというのと、似ている。それ以上ではない。

例えば、当たる霊感としても、それが、どこからのものかが、問題である。

何によって、その霊感を得ているのか。
大半が、浮遊する霊や、怪物の霊、つまり、人間もどきである。
あるいは、少しばかり、霊界で、進化した、動物の霊である。勿論、その後に、人の霊が、憑く。

インドの聖者といわれる者に、ロクな者がいないのは、インドの地は、魔界関与が、凄まじいからだ。

フリーセックス主義の、世界の和尚と言われる者、どうしようもない者である。
言葉の綾に、皆々、騙される。
サイハバも、そのトリックを暴かれた。彼は、別次元の霊界の者であるから、奇跡めいたことは、起こすことが出来る。だから、何だというのか。

霊感があるというのは、自己顕示欲が、旺盛であると、思えばよい。
何も、とりえが無い者、よく、霊感があると言う。

霊能は、特異体質である。
霊媒体質とも、言う。女性に多い。
霊が懸りやすいのである。

トランス状態というが、脳の中で、一種の麻薬に似た物質を出している。そういう、体質である。

大半が、思い込みである。

虚言とも言う。
本人は、思い込む。
妄想症とも、言う。病気である。

霊性という言葉を使う宗教もあるが、宗教の霊性は、危ない。
観念の神や仏の霊性であるから、その実が、知れる。

大半が、精神の狂いである。
少し、狂っても、社会生活は、出来る。

ある、カトリック信者の女が、霊感があり、霊性が、云々と言うのを、聞いたが、単なる、自己陶酔、自己催眠であった。
勿論、そういう者、精神不安定になる。
祈っていると、突然、涙が出るの、未来を見るのと、ヒステリーである。

伝統宗教には、必ず、霊性の教育がある。しかし、誰一人、真っ当な霊性を持つか、否かは、解らない。

甚だしいのは、共同幻想、共同妄想、共同催眠に、陥る。

見える、聞こえる、話す。すべて、主観である。
確認の、しようがない。

何かを、当てられたから、信じるというのは、実に、愚かなことである。
人生の大半の問題は、あてずっぽうに言っても、当たること、多々あり。

最新の心理学では、相手のことを、すべて知っていると、思い込ませるテクニックがあることを、突き止めている。

霊感では、なく、それは、やまかん、である。
霊能ではなく、それは、自己顕示欲のヒステリーである。

勿論、騙されたい人が多くいる。需要があると、当然、供給がある。

女に多いが、嘘を話しているうちに、それが、現実になってくるという。まさに、病気である。
それを、信じてしまうと、ほとんど、生き地獄になる。

知能レベルが低いと、特に、そういう、自己顕示欲にある、霊感に、陥る。寂しい病である。
そういう、小さな教祖が、日本には、数多くいる。

自分が描き出した、神や仏を見て、何が憑いたというから、気の毒である。
憑いたのではなく、描き出したのである。
寂しいゆえに、である。

更に、支配欲が、加わると、最低最悪になる。
そこに、集う者、支配されて、生活自体が、滅茶苦茶になる。
そういう人を、多くみた。

前世というものは、あるにはあるが、ハイ、誰々ですと、言えない。
その一部の魂を、受け継いでいる場合、多々あり。
つまり、次元が違うのであり、誰々ですと、簡単に言えるものではない。

キリストの生まれ変わりなどと、聞くと、愕然とする。
有り得ないことである。

そして、前世を知って、どうするのかということだ。
そんなものは、終わったことであり、未来に関わりが無い。
結果、この人生は、今、目の前にいる、私しかないのである。

先祖の因縁で、云々というのも、誤りである。
肉体先祖が受けている、苦しみを受けるという、説もあるが、それは、妄想である。
霊界にいる、先祖が、救いを求めている。
それは、自業自得であり、子孫にかかっているとしたら、更に、罪を作ることになる。確かに、先祖が、子孫に、求めることがある。血縁による、関係である。
先祖の行為によって、他の霊に祟られている人もいる。

およそ、三代、四代前の先祖が多い。
この世の未練に、囚われている。それを、子孫に投影する。
よって、先祖供養という、商売が成り立つ。
実は、先祖に供養されていることが、多い。
先祖は、崇敬するものである。

障る霊より、援軍する霊の方が多いのである。
それを、知らない。
障る霊のみを、取り上げて、除霊だの、供養だのを、行う。

この迷いは、如何ともし難い。

あの、仏陀でさえ、霊界のことに関しては、言葉を発していない。
キリストに、至っては、死者は、死者に任せよ、私に従いなさいと、言うのである。

この、次元では、あずかり知らぬことである。

先祖供養で、幸せになりました。目でした目出度し。
そういう者が死ぬと、今度は、子孫に、それを、求めるという、無知であるから、ホント、救いようがない。
親がアホなら、子もアホということである。

更に言う。
先祖供養とは、アフリカの、人類発生の頃からの、先祖を言うのか。

私の知り合いに、関が原の合戦の頃からの、家系図がある人がいる。
それ以前は、知らない。
他人に見せるべからずという、家系図を見て、先祖というのは、この程度の年代を言うのかと、感慨深くした。

ホント、ご苦労さんです。

実は、親を大切に、親に感謝するということで、先祖供養は、終わっている。
それを、続けていれば、問題ないのである。
子が親に、子が親にである。

親を、放って、先祖供養ですか。
信じられません。
以下省略。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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