2008年01月08日

神仏は妄想である 27

リチャード・ドーキンス
神は妄想である。
第四章 ほとんど確実に神が存在しない理由、より。

ダーウィン主義を深く理解することで私たちは、設計が偶然の唯一の代案であるという安易な決めつけに走ることなく、ゆっくりと複雑さを増大させていくような斬新的な斜路を探すことを学ぶ。

彼は、科学者として、多くの言葉を用いて、ダーウィンの進化論についてを、語る。
そして、その、人間の好奇心というものから、宗教の誤りを説く。
つまり、好奇心は、宗教の概念をこえるのである。

私たちは自分が暮らしている北半球優越主義が無意識のうちにあまりにも深く染み込んでおり、場合によっては北半球在住でない人間さえ、それはいきわたっている。

要するに、オーストラリア、ニュージーランドの地図は、南極が上にあるものであるという。上は、北極であるという、北半球の人間の無意識を、取り上げている。
「無意識」こそ、意識の高揚がなされる領域という。
面白いのは、言葉である。
男性名詞、女性名詞などの言葉で、歴史を見ると、そこには、男性名詞のみが、まかり通っている。
人間という時、それは、男性を指すのである。
そこから、ドーキンスは、話を展開させる。

意識を高めることの効果をフェミニズムが示してくれたので、私はその手法を、自然淘汰にも借用してみたい。自然淘汰は生命のすべてを説明するだけはなく、「組織化された複雑さが、いかなる意識的な導きもなしでどのようにして単純な発端から生じるか」を説明できるのだが、その意味では、科学に対する私たちの意識も高めてくれる。

ドーキンスの、利己的な遺伝子を読んで、無神論に転向した、ダグラス・アダムズの言葉が、印象的だ。

それが私の心にかきたてた畏怖の念は、正直に言って、宗教的な体験に敬意を表して語る人々の畏怖の念など比べるのも馬鹿馬鹿しく思えるほどのものでした。それ以来、どんなときでも私は、無知ゆえに畏怖することよりは、理解ゆえに畏怖することを選択してきました。

科学者の冷静さというものを、私は、尊敬する。
科学者の好奇心によって、どれほどの、無知蒙昧が、解明されたかは、計り知れない。
ただ、誤っては、いけないのは、素人たちが、使う、科学的という言葉である。
私も、含めて、科学的という言葉を使う時、それは、科学を知らないが、科学であるようなものという意識で、科学的という。
それで、多くの人が、騙される。

科学的に、実証されましたという、宣伝文句を、どれだけ、聞いたことか。
それに、準じて、医学的という言葉もある。
その知識、無知ゆえに、科学的とか、医学的という言葉に、安心を求めるのである。

それは、宗教家の、意識と、変わらない。

そして、科学的ということで、一件落着し、終わる。
宗教家も、最後に、神や仏で終わる。
しかし、科学者は、無限の可能性、終わらない、好奇心に支えられて、進む。

科学で無限に知る可能性を、知る、ということは、人間に、無限の可能性を観るということだ。

私は、すべてに、おいて、素人である。
ゆえに、私のエッセイで、解決せずに、これを、機会に、どんどんと、知識の海へ出ることである。

宗教家の限界は、聖アグスチヌスの言葉に表れている。

より大きな危険をはらんでさえいるかもしれない、もう一つの誘惑が存在する。好奇心という病である。それは、私たちを、自然の秘密に挑み、発見させるように駆り立てる。そうした秘密は私たちの理解を超えたものであり、私たちにとって何の役にも立たないものだから、知りたいと願うべきではないものなのだ。

アグスチヌスから、今まで、宗教の態度は、変わらない。
真実を晒しては、いけない。
神の存在が、危うくなるのである。

それこそ、アグスチヌスが、無意識に、恐れたことであろう。

兎に角、無知蒙昧で、いいのである。
後は、神が、すべてを、処理するというのだ。

科学は、何もまだ、知ってはいない。
という、宗教家は、大勢いる。
その通りで、ある。科学は、まだ、何も知ってはいない。
しかし、知りえたことで、人間は、多く、その恩恵を受けている。

今時、ローマ法王でさえ、病を、祈りで、癒すと、考えないだろう。
病院で、手当てを受ける。

病になれば、祈りで、癒すことである。
キリストは、一粒の信仰さえふあれば、山をも動かすと、言った。
強迫神経症タイプの、教祖は、皆、そのようなことを、言う。

奇跡を起こさないような、信仰なら、信仰が無いのと、同じである。

私は、二年続けて、同じ時期に、胃に激痛を受けて、24時間眠ることもできないほどの、体験をした。
病院を四件回ったが、痛みは、取れなかった。
唸りつつ、私は、祈った。
神や仏にではない。
私の胃にである。
長年、酷使したこと、済まなかったと。申し訳なかったと。

痛みが、引くまで、待つしかなかった。
その時、死を思った。
このような中で、死を迎えるのは、良くない。痛みで、死を味わうことが無い。死ぬ痛みは、麻薬でもいいから、取り除き、痛み無く、死を迎えたいと。

また、逆に、亀井勝一郎氏のように、癌の手術で、麻酔無しを希望するという人もいる。
その、痛みを知ることにより、思索の、至らぬことを知るというものである。
人間とは、実に、素晴らしい生き物である。
親鸞に帰依したというが、帰依したいと思いつつ、どこかで、その信に、不信を感じていたのである。

信じ切れないもの。
信じる切るというのは、実は、欺瞞であり、惰性なのである。

ドーキンスの引用した、あるブログの言葉である。

なぜ神が、何かについての説明とみなされるのだろう? それは説明ではないーーそれは単に説明不能というメッセージであり、肩をすくめる仕草となんら変わらないもので、「ワカンナイ」という言葉を儀礼的なチピリチアリズムで粉飾しているにすぎない。もし誰かが何かを神のせいにすれば、それが意味するのはたいがい、その人間が何の手がかりももっていないので、手もとどかず理解不能な存在である天の妖精のせいにしているということだ。そして、そいつはどこから来たのだと説明を求めればおそらく、「それはつねに存在してきた」とか、あるいは自然の外側にいるものについての漠然とした、擬似哲学的な答えが返ってくることだろう。もちろん、それは何の説明にもなっていない。

膨大な神学という、哲学的思考による、妄想に、科学は、王手を打つ。
無知ゆえに、想像した、膨大な妄想の数々。勿論、それは、芸術に、持ち上げられてもよい。

少年の頃、カトリック教会の司祭と共に、夏のキャンプをした。
星空を眺めて、司祭は、神に祈りを捧げた。
それは、素晴らしい、情緒教育であった。
知りえないものに対する、畏敬の思いを、私は、そこで、学んだ。

あなたは、この美しい星空を作り、私たちに、その栄光を、お示しになっています。
私も、素直に、その祈りを、敬虔に聞いた。
そして、それは、誤りではない。
実に、正しいことである。
しかし、それは、神の存在と、関係無いことである。

畏敬の思いを、何と呼んで賛美してもいい。

偶然にしては、出来すぎている自然の、あらゆるもの。それに、畏敬の念を抱く。そして、それは、遂に、私自身に、戻る。
生まれて、生きること、それ自体が、奇跡であると。
一時間先のことも、知らないのである。
暗闇の中を歩いているような、人生である。
しかし、生きられるのである。だが、知らないゆえにとは、言わない。

暗きより 暗き道にぞ 入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月
和泉式部

生まれたのも、暗く、生きるもの、暗いのである。
せめて、遥かにでも、いい。照らして下さい。仏というものが、いるならば。

神や仏を、光と、言う人の心が、痛い程解る。
しかし、神や仏は、光であるという観念は、捨てた方がよい。
大嘘だからだ。
神を光だということは、そのまま、闇だと言うことだと、知らない、無知である。

光は、闇によって、光と、認識される。
あえて、言うならば、神や仏は、闇である。
全く、先行き見えない闇が、神や仏の正体である。

闇の中に、光を見るというのは、幻覚、幻想である。

あれかし、という、強い思いが、それを、生む。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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