2008年01月07日

神仏は妄想である 26

宗教が慰めをもたらすからといって、宗教が正しいということにはならない。たとえ、どれだけ大きな譲歩をしたとしても、たとえ、神を信じることが人間の心理的・情緒的幸福のために絶対不可欠なものであることが決定的に実証されたとしても、たとえ、すべての無神論者は情け容赦なく、果てしなくつづく苦悩によって神経症に苛まれ、自殺に追い込まれるとしても---これらのどれ一つとして、宗教上の信念が正しいということを証拠立てる上で、毛ほどの役にも立つまい。ただし、神がたとえ存在しなくとも、存在すると確信するのが望ましいということを証拠立てる上では有益かもしれない。

存在するのが望ましいということを証拠立てる上では、有益、かも知れないという。
ドーキンスの場合は、主に、一神教の世界の神に対しての、語りである。

例えば、仏陀の教えは、人は、成仏できるという、人間の存在によって成る、仏であることを言う。
勿論、大乗仏教になると、一神教のような、教えを帯びて、仏、如来、というものが、神のように扱われる。

対立するもの、神として、崇める、拝むという行為は、原始体験である。
それを、原始宗教体験といって、よいのか、どうかは、躊躇うところだが。

人類の集合意識にある、畏敬の思い。それは、多く、自然対する思いである。
例えば、太陽信仰、水、風、そして、火の発見によって得た、火に対する畏敬などである。
集合意識は、潜在意識の中で、宗教的なものを、神なるものを、求めさせているとも、考えられる。

だが、仏陀の場合は、唯一、そういう意識ではなく、私が、完成したものになるという、考え方である。
何かに、帰依するという意識は、本来ないものである。
しかし、大乗仏教の多くは、帰依を説く。あるいは、信仰を説く。

仏陀の臨終の言葉は、わが身を頼み、真理の法を拠りどころとせよ、である。

とすれば、信仰を説く仏教は、仏陀の教えではないということになる。
つまり、特に、日本のような、大乗経典を主にする、仏教とは、仏陀と、何の関わりも無いのである。


要するに、「主よ、私は信じます。信仰のない私をお助けください」(マルコによる福音第九章二十四節)である。信徒は、確信していようといまいと、信仰を告白することを勧められる。ひょっとしたら、同じことを十分なだけ繰り返せば、それが真実であると自分自身を確信させることだってできるかもしれない。宗教上の信仰というものには好意的で、それを攻撃する者にかみついたりするくせに、自分ではそんなものをもちあわせない人というのがいることを、私たちはよく知っている。

この前の、文には、
信仰を信じるとは、たとえその信仰自体は誤りでも、それを信じることが望ましければ信じる、という態度だ。
と、ある。

さらに、神を信じることと、信仰を信じることの区別という、言葉もある。

彼らは信仰を信じているのだ。「Xは真実である」と「人々がXは真実であると信じるのが望ましい」のあいだのちがいがわからないらしい人があまりにも多いのは驚くべきことである。あるいはひょっとしたら、彼らはこの論理的誤りに実際に騙されてはいないのだが、単純に、人間の感情に比べれば真実など重要ではないとみなしているのだろうか。人間の感情を非難したいとは思わない。しかし、はっきりさせておきたいのは、私たちが何について語っているのかということである。感情についてなのか真実についてなのか。両方とも重要かもしれないが、この二つは同じものではない。

ドーキンスは、実に饒舌に、噛み砕いて、説明している。それほど、彼は、神が妄想であることを、いいたいのである。

私は、この書の、最初に戻り、ドーキンスと一緒に、聖書の神、旧約の神について、徹底的に、書くことにする。

神は、真実である、と、信じることが、望ましいのか、真実なのかという、問いかけは、皆に、冷静さを、呼びかけているように、思われる。

一度、妄想の網に、引っかかった者は、そこから、抜け斬ることは、難しい。何となれば、一つの神を捨てると、新しい神を、拝みたくなるのである。

ある、新宗教の、集会に行き、一人の男が、信仰宣言のような話をした。
曰く、天理教にも、行った。立正佼成会にも、行った。あちらにも、こちらにも、行った。しかし、救われなかった。何も、良いことがなかった。
こちらに来て、やっと、本当のものに、出会い、人生が変わった。と、言うのである。

それは、単に、時間の問題であろうと、思うが、信仰という、網の中に入った、彼には、最早、囚われの身となり、思考停止の状態になってしまったのである。

カトリックから、改宗しても、信仰を止めない夫婦を、知っている。
新・新宗教の元に、駆けつけているのである。どうしても、信じるモノが、欲しいのである。
何かを、拝みたくて、しようがないのだ。
そして、拝む対象が、空想なのであるから、救いようがない。

無神論者が、不幸で、不安にかられ落胆に向かう何らかの一般的傾向をもつという証拠が存在しないのを私は知っている。幸福な無神論者はいるし、惨めな人もいる。同じように、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒のなかにも惨めな人もいるし、幸福な人もいる。幸福と信仰(あるいは幸福と不信心)のあいだに相関があることを裏付ける統計的な証拠が存在するかもしれないが、どっち向きにであれ、それが強い影響をもつというのは疑わしいのではないだろうか。それを言うなら、神と無縁な生活を送ったら気が滅入るべき何らかの理由があるのか、こう問うほうがもっとも興味深いと思う。私は逆に、控え目に言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。

宗教とは、基本的に、迷いである。
迷いの中にて、救いがあると、勘違いするという、性質を人間が持つということだ。
それが、人間の、本質である。

自己完結をして、泰然としていれば、神仏は、必要ない。
たとえ、神仏が、存在するとしても、私が、認証しなければ、神仏は、全く関係ない存在なのである。

何せ、神仏という、次元と、質が違う世界なのである。

隣にいても、関係ないのである。

それは、無いことと、同じである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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