2008年01月04日

神仏は妄想である 23

宗教は「反合理主義」の場に逃げ込んだのだが、それは決して宗教の衰退を意味しなかった。はじめのうちこそ(18世紀から1960年ころまで)、「最高知」の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。近代社会がそういう逃げ場を必要としているからである。近代合理主義の「知」は、その対立物としての「宗教」をかえって必要としたのである。近代合理主義がつきつめられればつきつめられるほど、それでは覆い切れない人間性が痛みはじめる。だから「逃げ場」の価値が高まる。

これは、特に欧米、そして、日本などの先進国に言える。
後進国、東南アジアなどの、宗教は、そうではなかった。
貧しさゆえの、伝統的行為としての、宗教であり、それによって、生活に救いが、見出せた。
富める者が、痛むのであった。貧しい者は、痛みを感じない。すでに、貧しいという、無意識の痛みを感じているからだ。

何を言いたいのかといえば、豊かさによって、人は、満足しないものであるということだ。
合理主義がつきつめられればと、田川氏が言う。
それは、先進国の富める人々のことである。

今日、明日の、食う、寝る、という、生活の中にある人々は、近代合理主義から、逃れていたというか、捨て置かれていた。

合理主義の、人間性を無視する、進み方に、人は、反合理主義の、宗教に、心のある場所を、許した。そうでなければ、皆々、精神病に陥る。
かろうじて、宗教という、妄想に身を委ねて、誤魔化すのである。

そして、その「逃げ場」がうまく温存される方が、近代合理主義も安心していられる。合理主義では割り切ることのできない領域には、合理主義は手をつけませんよ、というたてまえ上の保障を与えることによって、ほかのすべての領域では近代合理主義は横暴をきわめて暴れまわることができた。宗教の方も、「人間性の深み」という架空の領域を確保してもらうことによって、自分たちは、近代合理主義の横暴がその分を越えて「人間性の深み」にまで踏み込まないように監視しているのだぞ、という自負心を持つことができた。

巨大企業と、手を結ぶ宗教であると、思えばよい。
国家が、宗教を保護するのは、国民の、ストレス、苛立ち、激しい国家政策への不満を、分散して解消するために、ある、と言う、賢い者がいる。
人間性の深み、という、架空の領域を確保して、という、田川氏の見識は、正しい。
宗教を、人間性の深みとして、容認する、ずるい、大企業であると、思えばよい。

ところが、架空の領域を、許された、宗教が、何を勘違いしたのか、その気になって、布教、伝道をして、他の精神世界を、犯すという、過ちを繰り返すのである。

布教、伝道、折伏等々の、宗教的行為は、その、潜在意識が、不安と、恐れに満ち満ちていることを、知らないゆえのものである。
つまり、架空のもの、妄想を、一つでも、多くの人と、分かち合いたいと思うもの。

信仰とは、自己完結の、何ものでもない。
自己完結出来ない不安と、恐れを持つ人が、他の精神世界を犯しても、自分たちの、妄想の神を、伝えるという、行為に、おいて、少しの安心を得るという図である。

世界に広がる、何々宗と、喧伝して、安心するという様である。
教祖をはじめとして、そう思い込む。
教えが広がる、イコール、正しい信仰、正しい宗教と、思い込み、安心する。

教えが広がる程、魔的な、集団だとは、思わないのである。

隠れておいでになる、神を、喧伝するという、愚かしさ。

仏教国タイにおいての、プロテスタント等の、キリスト教の、布教などをみても、笑う。
まして、日本の偽仏教の、さらに、その亜流の新宗教などが、信者を獲得するために、布教する様は、滑稽を通り越して、悲劇である。

現地在留日本人を信者にして、更に、現地人を、信者に、獲得しようとする様、実に、見苦しい。

一神教のキリスト教などは、混乱を撒き散らすのである。
手のつけられない、アホな手法を持って、タイの若者を、騙すのである。
キリスト教の神以外の、神や、仏は、悪魔からのものであると、平然として教える。勿論、悪魔は、自分の方である。

キリスト教については、後で、徹底的に書く。

さて、田川氏の、文を続ける。

ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのという「優秀な」自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。

そこととは、
近代合理主義の克服という課題そのものが虚妄なのではない。その看板を宗教に担わせたから、かえって、克服されるべきものと克服の課題であるはずのものが助けあって共存しはじめたのである。

本当のところ、近代合理主義で割り切ることのできる領域と、そうではない宗教的な「人間性の深み」の領域とを、分けることなどできはしない。人間にかかわるいかなる領域であろうと、「合理主義」で割り切り、ぶった切ってよい、などということはありえない。そういうことをしてよい領域は、一点たりとも存在しないのである。だから、そのように領域を分けることができると思ったこと自体が、大きな虚妄だったのである。そして、近代合理主義の側が実を取り、宗教が虚についた。

学者で、このような、明晰な分析をする人かいることが、救いである。

学者というものは、どちらかの、太鼓持ちになるのである。
決して、危険な発言はしない。
金にならないからである。
要するに、堕落している。勿論、堕落しているなどとは、思わない。だから、救いようがない。

田川氏の、論文は、宗教を越えるもの、である。

今こそ、知性を、総動員して、宗教を超えなければ、先が無い。

この、妄想を越えなければ、超えるともいう、そうしなければ、新世紀を生きられないのである。
その最大の、事は、戦争の虚である。
宗教とは、戦争の理由に、他ならないのである。

戦争反対を掲げるならば、宗教と、それに準ずる、イデオロギー、主義を、徹底検証しなければ、ならない。
それらは、虚であり、虚妄であり、妄想だからである。

人間を幸せにする、主義は、未だかって、現れていない。
民主も、社会も、共産主義も、支配者のためのもの。

人間を幸せにするものとは、食って、寝ることが、出来るということである。
それが、安心して、成るということである。
すべの、国で、である。
勿論、これは、私の祈りである。





posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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