2008年01月03日

神仏は妄想である 22

それまでは「知」の最高形態としての位置を確保していた宗教が、いつのまにか「知」の対立物として、「知」の虚妄の意味を打破するはずの「感性」として登場するようになったのか。答えは簡単である。近代になって、知の領域においては宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまでの宗教のしめていた位置にとって代わった。その結果宗教は逆に、「知」に対立する領域へと逃げ込んだのである。それまでは、宗教知を克服すべきものとして出てきた「霊」も、やはり宗教的なものであった。つまり、「知」も「知の克服」も宗教の枠内にとどまった。ところが近代においては、領域が分断されて、近代科学が「知」の領域を、そしてその対立、克服の課題は「宗教」が担うようになった。近代科学は「知」の領域では宗教にとって代わることに成功したが、かつての宗教のように全人間的な支配の座につくことはできなかったからである。

田川健三氏は、一言も言わないが、宗教というものは、妄想であるから、どうにでも、理屈をつけることができるのである。あちらが駄目なら、こちらで、という風に。
兎に角、労働は、しないが、その代わり、屁理屈だけは、三人前である。

近代的な、合理主義に対して、宗教は、感性と、結びつけて、そこにこそ人間性と、宗教の根源的な、何かがあるというような、大嘘を言うのである。
宗教の本体は、虚、である。
虚、であるがゆえに、何とでもいえる。

その点、田川氏も、宗教にそのようなものを期待する、というところに近代の病根があるという。

その期待を、病根を裏返しに投影した虚像という。
病根を取り除けば、虚像も、自然消滅するという。

ここまで、分析されても、宗教家たちが、理解するのは、難しい。
要するに、彼らも、洗脳されているからである。
自己洗脳である。
一度、信じたものを、捨てる訳には、いかない。
疑惑が起こっても、安楽な生活を捨てられないのである。そして、今のところ、宗教は、潰れない。破産しないのである。

勿論、過疎地域の寺等々、田舎の寺は、廃墟になっているところ、多々ある。
また、新宗教に、取られて、信徒少なく、維持できないという。

巨大な、信徒の団体であったものを、破門した、日蓮正宗などは、最早時間の問題で、壊滅する。
トラック何台で、運んで来ていた、布施金の団体であった。
今更、悔やんでも、どうしようもない。
それのみか、宗門の方は、墓穴の堀り続けである。

その団体は、口汚く、宗門を攻撃するから、同じ穴の狢である。

要するに、座主からはじめ、信仰など、露ほどもないのである。
単に、支配欲と、金目当てである。
そんなことは、100年も前から、解っていたことである。

信仰と唱えていれば、それで、事足りた時代とは、少し変化している。
時代は、宗教の本質を、見極めてきたのである。

しかし、それだらかといって、霊感なるものも、矢張り時間の問題である。

オーラ測定器が出来て、オーラを見れるという人が少なくなった。
もう、誰も、有り難がることがない。
ただし、医者がそうであるように、矢張り人間の体温というものが、必要である。
その体温をあるように、見せかけて、詐欺をする者が、多数出てくる。
霊感、霊能商法である。

田川氏の論文は、一部のインテリに向けたものであり、下々の、騙される大衆には、効果が無い。

要するに、思考力が、非常に低く、知能のレベルも、低い故に、考えることが出来ないのである。
信じていれば、楽だから、信じるというのが、精々である。

すべてを、神に任せないさい。
髪の毛一本も、人間はどうすることも出来ない存在です。しかし、イエス様は、云々かんぬんと、勝手放題を言うのである。それに騙される者。

後々で、キリスト教全般に渡って、徹底的に、書くが、兎に角、カトリック、プロテスタント、聖書主義、新宗教等々、まあ、あれ程、勝手なことをよく、言うと思うのである。
その、聖書自体に、作為があり、イエスの言葉ではないと知ったら、どうするのだろうか。
しかし、大丈夫。
信じる者は、確実に、騙されるのである。

私は、実に、信仰深い者であるが、神仏は、妄想であることを、知っている。
神仏のみに、信仰という姿勢があるかといえば、全く違う。

神仏を信じて、騙されることが、信仰ではない。

信仰とは、生命への畏敬であり、それは、自然への、畏敬であり、全人的なものへの、畏敬である。

追々と書くことにする。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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