2008年01月01日

神仏は妄想である 20

田川健三氏の、宗教を越える、を、読み続ける。

近代的技術や資本の論理による暴力に対して立ち向かい、反撃し、克服するには、彼らが考えてもいない数多くの水準にわたって深く鋭い洞察力を持つことが必要なのである。

いよいよ、宗教というものの、姿が見えてくるのである。
宗教的思考とは、このようなことを言うのである。
誇大妄想の、云々ではない。
そういう意味では、日蓮など、当時の不安感と、恐れによる予言、立正安国論については、実に、理解する。ただし、彼は、遂に、ただ、唱えるだけの、詭弁になったということである。
軽薄だったのは、誤った神や仏を拝むから、日本は滅びるといったような、短絡思考である。結果は、田舎者の、戯言になってしまったのは、劣等感のみの故であることが、判明した。
しかし、今も、その日蓮のように、法華経を奉じる国でなければ、滅びるという、アホがいるから、世話がない。
国立戒壇を設けよと言うから、頭の程度を疑う。
日蓮正宗の、信徒の団体である。ケンセイ会といったようであるが、忘れた。
会員獲得のための、行為で、警察沙汰になったのは、昨年である。

確かに相手は暴力なのだから、それに立ち向かうにはこちらも持続する力を持たねばならぬ。ただの知性からは力は出て来るまい。しかし、その力は深く鋭い洞察によって支えられねばならぬ。この洞察を知性と呼ぶか、合理性と呼ぶかといったことは本当はどうでもよい問題である。ただ、合理主義ではだめだったから今度は非合理で行こうかとか、知性ではだめだったから感性で、というようなことでは、初歩的な力にはなっても、問題のひろがりは見えてこないのである。

大半が、この程度のところで、何とか、議論を続けようとするが、それでは、駄目だと言う。
問題の広がりと、田川氏は、言う。
問題の広がりこそ、宗教の務めであるが、宗教は、全く、逆である。
問題を、逆に狭めるのである。
宗教家が、特に、巨大教団のトップが、いくら、メッセージを発しても、何の役にも立たないのである。
それは、偏狭だからであり、全く、自分の身には、関係ないからである。
痛みを知るはずの、宗教家が、実は、一番、大衆の痛みを知らないのである。

感性と感性でむき出しに押し合ったら、少数者の感性がいかに正しくとも、暴力的に押し流されてしまう。いわゆる近代的合理主義が何のかのと言っても強いのは、決して感性を無視してそろばんづくで押し通しているからではない。むしろ多数の者、あるいは少なくとも何らかの意味で立場の強い者たちの感性をうまく自分の側にひきつけ、彼らの感性を実現する合理性を作り上げてきたからである。そろばんやコンピューターが知性なのではない。むしろそろばんやコンピューターこそが多数の感性を代弁する。

実は、地球が危ないと言って、様々な試みが、開始されているが、嘘である。
本当に危機感を感じているならば、事は、もっと、迅速である。
環境云々という話は、実に、荒唐無稽なものである。
私に言わせれば、今更、何を言うということである。
一々、例を上げないが、嘘だらけである。

多くの取り組みが成されているというが、その実、何も意味無いことかもしれない。
矛盾するが言う。
地球が、謀反を起こせば、すべては、無に帰す。

植林、緑の運動等々は、素晴らしい。
水没する島を救えというのもいい。

だが、肝心なことは、地球、すなわち自然の働きに、適わないということである。
何も、自然破壊を推し進めてもいいと言うのではない。

後戻り出来ない程、自然を破壊して、何を言うということである。

霊学から言えば、自然破壊は、自然汚染であり、それは、汚れである。汚れは、穢れである。穢れは、清め祓いが必要である。
それを、せずに、自然を守ると言っても、詮無いこと。

これは、たった一つ例であるが、日本の伝統は、まず、穢れ祓いから、始まる。
穢れを起こした、私が、まず、身を清めて、それから、取り掛かるのである。
目に見えない、自然の脅威と、自然の恵みに報恩感謝の行為である。
もう、この辺から、意味が解らなくなるだろうが、言う。

自然というものは、目に見えないものである。
山川草木という、目に見えるものの、後ろにある、目に見えない働きが、自然である。
その、目に見えない自然に対して、執り行う行為を、日本の伝統は、受け継いでいる。

植樹する前に、何をするのか。
日本の伝統は、祝いの言葉を、宣べるのである。つまり、祝詞である。
寿ぎの言葉、つまり、言霊があってはじめて、その行為が、目に見えない自然を、動かすということである。

もし、宗教というものが、私の概念での、宗教というものがあるとしたら、それである。

アフリカの、マータイさんという、おばさんが、もったいない運動を展開していると、喧伝するが、彼女は、もったいないという、心を知るはずがない。
もったいない、という言葉は、世界に発信するものではなく、言語同断に、実践するものだからである。
それで、有名になっているとしたら、嘘である。

実に、実のものは、秘するものである。

あれには、作為がある。
勿論、喧伝することには、何も問題は無い。
勝手にやっていれば、よい。それなのに、誰かが、それを、宣伝する。おかしい。
ある宗教団体が、特に、彼女を取り上げている。

他人の苦痛を共感しうるようになるためには、深く鋭い知性が必要である。というよりも、深く鋭い知性ならばそのように共感して動き出す感性にまでとどくはずだと思う。深いところでは、感性は知性によって動かされ、知性は感性によって支えられる。両者は混然として共鳴する。

そして、いよいよ、本題に入ってゆく。

圧倒的多数の人間は、地球の裏側の人々の餓死と自分自身の生活とが、感性的にすぐにつながって自分の胃袋がおのずと働かなくなる、というような感性の鋭さは持ち合わせていない。

そのために、知性の働きが必要だという。知性によって、感性の幅を広げることが出来るという。
これが、宗教の根本命題である。

仏陀の悟りというものも、知性が、感性を無限に拡大したものである。

既成の宗教は、知性を抑制し、感性を取り押さえて、本当の自分に、どこかで、引っかかるようにして、神や仏を、拝ませる。
更に、人権まで、蹂躙して、平然として、神や仏の名によって、信徒を、兵隊のように、扱うのである。
そして、支配する者は、神も仏も、全く意に介さないという、仰天である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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