2007年12月15日

神仏は妄想である 15

僧侶も、人間であるからといって、許せることと、許せないことがある。

例えば、密教系の宗派の、僧侶は、大寺院を経営し、幼稚園、墓地を所有し、土地も、多く持つ。
しかし、その本性は、娘を、性的虐待するのである。
近親相姦である。
その、娘は、意識にトラウマを持ち、家を出て、SMの世界に入り、仕事をした。拭い切れない、記憶を、SMにより、解消しようとした。
勿論、解消できるものではない。

日蓮宗の大僧侶は、手伝いの女に子を産ませて、その後は、その女を寺から追い出した。
その、母子は、辛苦の人生を、歩んだ。

真言宗の、地元では、有名な寺の、住職は、愛人を作り、それによって、妻を自殺に追い込み、妻が自殺すると、早速、愛人を寺に入れて、結婚し、先妻の息子を寺から出して、愛人の子供に、寺を継がせた。

まだまだ、ある。

僧侶も、人間だからといって、良いものか、どうか。

仏教の僧とは、妻帯せずに、仏の悟りを悟り続ける者であり、日本以外の仏教の僧は、妻帯しないのである。

妻帯を始めたのは、親鸞が、最初である。
その、師である、法然も、妻帯していない。

親鸞は、僧にあらずなのである。
ところが、勝手な解釈をして、勝手に、堕落した僧であると、酔いしれ、私のような、罪びとは、地獄が、住処である、などいう、勝手な、作家のようなことを言うのである。
作家であり、僧ではないということ、明白である。

浄土真宗の開祖として、奉られて、その派閥は、十派ある。
その中でも、大きいのは、東西の、本願寺派である。徳川家康の宗教政策により、分けられたのである。
この、真宗は、信長、秀吉等々、戦国大名を、悩ませたのである。
信徒を、兵士にして、大名と戦わせるという、仰天する行動をさせたのである。
最も、戦いに、遠い者のはずが、戦うという。
何ゆえか。
支配欲である。

教団が、大きくなれば、さらに、その支配を広げるべく、とんでもないことを、始めるのである。
今も、政治団体を持つ、新宗教がある。

親鸞の書いた、教行信証を、彼らは、信仰の骨子とする。
更に、絶対他力というから、呆れる。

その、帰依するモノは、阿弥陀如来である。

教行信証の中でも、特に大切にされる、文句が、ある。

帰命無量寿如来
南無不可思議光
きみょうむりょうじゅにょらい
なむふかしぎこう

無量寿如来に帰依し、不可思議光に南無したてまつる。
帰依も、南無も同じ意味である。

この、阿弥陀仏というものは、寿命無量、アミターユス、と、光明無量、アミターバという、観念である。
寿命も、光明も、無限に永遠であるという、観念である。
ご存知、大乗経典のお話である。

初期、仏典には、そんな話は、無い。

仏陀滅後、700年ほど経て、南インドにて、龍樹という者が、抱いた妄想、創作である。

大乗経典には、この、妄想、創作の仏や、如来が、数多出てくる。
暇に任せて、よくもまあ、続々と、創作したものである。

親鸞は、サンスクリット語を知らない。
漢語の、仏典を持って、ただ、妄想に邁進したのである。

その思索の、深みは、理解するが、あまりに、臭いのである。

念仏のみで、救われるという、法然の教えは、私一人のためのものだとか。
救われない私をも、救うという、弥陀の本願に、ただ、頼るしかないだの。
まあ、兎に角、文学者や、ぶった思想家、知識者に、好まれるような、文句を多々言う。

歎異抄の中で、親鸞は、弟子の唯円に言う。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり

そこまで、思索するのは、いいが、弥陀の本願というものは、作り事なのである。
騙されているのである。

しかし、法然に、騙されて、地獄に落ちいてもいいのだと言う。何故なら、自分は、地獄にいるのが、当然な者だからであるという。

こういうのを、罪悪観念意識拡大という。

複雑怪奇に、陥ってしまったのである。

親鸞の筆跡を見る。
考えすぎで、神経症になる、タイプである。
更に、単純な欲望が強かったせいで、相当に、悩んだであろう。
少しばかり、頭が、働いたせいで、とんでもない、妄想の世界に、意識を、遊ばせたのである。

どうも、哀れである。

阿弥陀仏という仏になるのは、法蔵菩薩である。
無量寿経の中に出てくる。

ダルマカーラと名乗る求道者の時に、53の仏が、すべて、この世に出現していた。
法蔵菩薩は、54番目となる、ローケーシュヴァララージャという、仏に会い、師と仰ぎ、自分も、その仏のようになろうと、願を立てる。
その時に、師を、褒めるだけ、褒める。そして、48の願を立てる。
その願の中に、阿弥陀仏という仏になるというものと、一切衆生を救うための、極楽浄土を、建立するというのである。

この、御伽噺を、信じたのである。

空言、戯言、夢事である。
インド人が、好むお話である。奇想天外であるということだ。

一切の人が、仏にならないならば、云々という、願を立てるというのである。

大乗仏教とは、小乗、上座仏教に対する、対抗として、発生したものである。
つまり、仏教の大衆化である。
それは、理解するが、その経典となると、あまりに、作り事なので、辟易する。

仏説という、冠をつけて、仏典と称するが、何のことは無い、空想である。

仏陀でさえ、そんなことは、言っていないと言うほどである。

大乗経典を、学ぶために、天竺に渡った、三蔵法師で有名な、玄奘は、救われない者もいると名言している。

どう、転んでも、救われない者がいるというのである。
つまり、成仏も、往生も、出来ない者である。

すべての人が、救われるまでは、云々というならば、阿弥陀仏は、まだ、極楽浄土を、建立していないということである。

何せ、世界では、救われない人が、多すぎる。
更に、日に日に、救われない人が、多くなっているのである。

浄土真宗とは、惰性である。
惰性の信仰を、掲げている。
勿論、浄土宗も、然り。

いやいや、法華経を掲げる、天台も、日蓮宗も、その他の、日本仏教というものは、すべて、惰性と、怠慢の一言。
役立たず。
用無し。
アホ、馬鹿、間抜け、糞ったれ、である。

無学文盲、無知、低脳が、信じているのみである。

私の親も、言う。
うーん、檀家だから、ねー、と。

たまたま、浄土宗の寺の檀家になったのである。
祖父母の代である。
つまり、惰性である。

惰性で、持っている、ただ今の、日本仏教である。

手の施しようが無い程、腐っているのである。

科学が、霊界を証明すれば、それらは、すぐさま、捨てられる。

天国、極楽、地獄等々は、ありません。
霊界は、次元の違いの世界です。

という、結論に至る。




posted by 天山 at 00:00| 沈黙を破る | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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