2007年12月09日

神仏は妄想である 10

神という文字は、最初は、稲光の様を言う。つまり、自然の、異様な光景をもって、神という文字が生まれた。
雷神というものが、象徴している。
後に、天の神なる、観念が生まれるが、中国思想に、基本的に、神という観念はない。
あるのは、孔子の言う、天の思想である。

道教で言うところの、ものは、神というより、精霊である。あるいは、化け物のことである。
神仙の思想は、あくまで、生きている人間のことであり、通常の人間の限界を超えた者、仙人による。

日本ではじめて、神道という言葉を使用したのは、有間皇子の父である、孝徳天皇である。
仏教という概念が、輸入されてから、日本の国の、本来の伝統行為を、神という言葉で、表現したのである。

ちなみに、孔子は、知らないことを、知らないという。それが、立派である。
鬼神を語らず、というのである。
孔子は、三次元以外の世界を、知らないと、明言した。
故に、孔子の思想は、平面的である。
人の道の先にあるものは、天であるという。
決して、超越した、次元にあるものではない。

孔子の論語は、道徳を言うのであり、それ以上ではない。
生き方の、規範を示したのである。
それはそれで、有意義である。
一つの方法として、利用出来る。

中国に、仏教が輸入された時に、ある混乱が起こる。
道教、儒教との、関わりである。
どちらが、上かという議論に、沸いた。
結局、皇帝により、等分という判定を下される。
それぞれを、尊重するというものである。

しかし、仏という、存在は、中国になかった。
故に、仏を論じるのに、多くを費やすことになる。

梵語の仏陀の音訳を、佛に当てることになる。
元は、人と、音を表す文字の組み合わせである。人に似たものという意味である。
音訳で、仏という文字を仏陀に当てたのである。

仏陀の略称を、仏というのである。

ここでも、解るとおり、梵語を、音訳するということである。
音訳するので、漢語に意味の無いこともある。しかし、日本に、漢語の仏典が、輸入されると、漢語の意味で、仏典解釈を行うという、過ちを、多々犯すのである。

要するに、仏典解釈ではなく、漢語解釈である。
ここに、大きな問題がある。

音訳しただけであるのに、その音訳された、漢字を持って、解釈に当てると、とんでもない、意味解釈になるのである。
ところが、それが、大手を振って、行われた。つまり、創作である。
本来の、梵語の意味など、どこ吹く風である。

当然、ずれずれに、ズレるのである。

そして、訳した者の、作為が入るのである。

さて、それでは、日本の伝統としての、神という言葉についてを、検証する。

柿本人麿の歌から見る。
吉野の宮に幸でましし時、柿本人麿の作れる歌

やすにしし 吾が大君 神ながら 神さびせすと 芳野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば 畳はる 青垣山 山神の 奉る御調と 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉かざせり 逝き副ふ 川の神も 大御食に 仕へ奉ると 上つ瀬に 鵜川を立て 下つ瀬に 小網さし渡す 山川も 依りて奉ふる 神の御代かも

ここで、神ながら 神さびせすと
山神、川の神、神の御代
神という言葉が、このように使われる。

神ながら、とは、神にましますままに。
神さびせす、とは、神としての、振る舞いをなさる。
山神は、やまつみ、と言う。山祇である。山々を、支配する神である。
ちなみに、海神は、わだつみ、といい、海を支配する神である。
そして、川の神という。

ここで、解ることは、日本人の神というものは、人間と隔絶されたもの、対立したものではない。
大君という、天皇も、また、神と、呼ぶ。

つまり、ある働きを、神と呼ぶのである。

それは、列島の民族が、見出した、真理である。
働きが、神なのである。
それは、広義に解釈して、いいのである。
この、宇宙の働きも神である。
そして、自然界のすべての、働きも神である。
さらに、人間の社会を治める働きをする人も、神である。

キリスト教、イスラム教の言う神とは、全く違うのである。
さらに、多くの宗教が、掲げる神というものとも、完全無欠に、違うのである。

もし、一神教が、宗教であるというならば、日本には、宗教はない。あるのは、伝統行為のみである。
そして、唯一神というものは、必要ないのである。

更に言えば、何故、仏教の仏に対しても、受け入れたのかといえば、仏も、神と、同じく、働きと、観たからである。
特に、天武天皇は、国民に仏を奉ることを詔したのは、仏の働きに、真理を観たからである。
それは、働きである、神というものを知るゆえである。

ここで、新宗教が言うところの、神とは、働きであり、それが、様々な形を持つゆえに、多神教というものも、一に帰すのであるという、詭弁に騙されてはならない。

万教帰一を言う新宗教は、一見して、正しく見えるが、それは単なる詭弁である。
書籍販売で、巨大教団になった、宗教の教祖は、多くの宗教の教えを取り入れて、それが、実相世界を言うものであり、実相を知ることで、すべての病が癒え、完全無欠な人間、つまり、神の子としての、完全な生き方が、出来ると説く。
一見して、なるほどと、思わせるものの、実は、大きな誤りを犯している。

完全無欠ではなく、不完全なものとして、この世に生まれたことを、謳歌するために、生まれたのである。
仏陀が言う、生老病死という、定めを、あえて知り、この世に、生まれたのである。

物質は、無いといっても、目の前には、物資がある。
それを、無いとは、いえない。
本来は無いものであると、言っても、今、目の前にあるのである。
在る物を、無いと、言い聞かせて、無い、無い、と思い込む方が、誤りである。

病も無いという。それは、影であるというのである。
それならば、生まれて生きる、意味が無い。
何故、自害して果てなかったのか。
それは、教祖の自己顕示欲と、生に対する、執着であろう。

その、教団は、次に三代目が、教祖の跡を継ぎ、更に、宗教として、活動を続けるのであろう。
それが、嘘である。

神ながら 神さびて、に、非常に近いように見えるが、実態は、宗教団体である。

病が癒えても、人間は、死ぬのである。
10年長く生きようが、20年長く生きようが、大差無いのである。

日本の伝統にある、神というものを、再度、考察することである。
万葉集を読めば、それが、解る。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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