2007年12月08日

神仏は妄想である 8

宗教というものを、検証してゆくと、本当に、人間の愚かさを知る。
それ、愚かさを、無明というが、宗教自体が、無明であることを、知らない不幸である。

さて、私は、多くの教祖から、成り立つ宗教を知るが、面白いのは、教祖より、高い次元にいる、信徒の霊位である。
これは、どういうことか。
教祖は、自己顕示欲旺盛に、宗教を立ち上げる。しかし、信徒は、ただ一筋に、信仰の道に生きるのである。
すると、教祖より、高い境地に至る場合、多々あり。

こうして、教祖というものの、正体が解るのである。

例えば、誤った教えであったとしても、信徒が、その誤りに入らず、次元の高いレベルの心を、培えば、その信仰を通して、高いレベルに行くということである。

であるから、すべては、一つの方法であるということである。
何も、信仰行為を行わない者でも、高いレベルの霊位にある人もいる。

宗教というものは、方法に過ぎないのである。それも、たった、一つの、である。

とんでもないのは、矢張り、教祖や、開祖、そして、その団体の代表にある。

ある、新宗教の、新聞等を読むと、至るところに、勝ち負けという言葉が使われる。
勝ち抜け。信仰とは、勝つことである。
そして、師弟の関係である。
師弟関係の、尊いことを、くどいほど言う。

つまり、代表者と、信者の師弟関係である。

190カ国に、布教を展開して、宗教研究者にも、注目される宗教である。

果たして、その実態は、どうなのか。
代表は、世界各地から、顕彰され、世界各地の大学の名誉教授を受ける。
その訳は、簡単である。
金にあかせて、寄付をするのである。
現金でなければ、物である。
ワシントンに、会館を建設することになり、祈りの場として申請したが、住民が、反対運動をした。その、団体は、日本では、政党を持つからである。
会館が、単なる、祈りの場にならないとの、懸念である。

信者から、金を巻き上げて、我が身の、名誉のために利用するという、手である。しかし、信者は、喜んで、お金を出すというカラクリ。
信じられないが、サラ金から借りても、支部の目標額に、皆々、布施をする。

その、団体が唱える経典は、悪魔の好む、法華経である。
また、別名、地獄行きの、法華経である。

その代表の書き物には、いつもながら、民衆を救うのだ。敵を倒すのだ。味方を増やすのだ。と、ある。
随分と、単純明快であるが、だからこそ、人が集うのだろう。
宗派から、破門されて、益々と、その威力を増した。
実に、魔の経典の力である。

宗派とは、宗門である。
その宗門は、他の同じ宗派より、重要な教え、つまり、秘伝があるとされる。
勿論、秘伝といっても、しょうもない、拘りである。
三重秘伝なるもの。文底秘沈といい、法華経本門寿量品の文底に三大秘法の御本尊を、秘し、沈められているという。

兎に角、勝手な想像であるが、その宗門の、信徒の団体が、破門されて、益々、勢いよくしている様、何とも、理解し難いのである。
しかし、公宣流布を掲げて、勝ちまくれという。

唯一の宗門から、離れて、ついに、我らこそが、仏意仏勅の、宗教だと言うから、頭が変になる。
では、その宗門の、秘伝等々の教えは、どうするのだろうか。
どんどんと、簡略化して、世界に流布させている、仏の教えというもの、本当なのであろうか。
仏教というものを、どうも、知らないようである。

勿論、出たところは、日本仏教であるから、最初から、誤っているのである。

何度もいうが、日本の仏教とは、中国思想による、仏教であり、天台という僧から、多くを受け継いでいる。
言えば、三千大千世界という。
心の世界を言うが、それは、五千大千世界と言ってもいいのである。
何とでも、言える。

代表者が、言う。
まず、組織を作ることからだと。
そして、それ以前の代表者は、30名ほどの信者を集めれば、食っていかれると言うのである。
すべては、明らかにされる。

公宣流布というのは、組織を支配する者の、自己顕示欲であること、明々白日である。
そして、名誉欲である。

私は、宗教者が、単に、人を助けるために、布教をせずに、淡々として、各地、各国で、奉仕活動をしている様を知る。
それは、その働きで、教えというものを、実践しているのである。

マザーテレサが、偉大であるというのは、その奉仕活動ではなく、彼女は、助けた人に、キリスト教、カトリックの信仰を、強要しなかったことである。
後の行為行動は、多くの宗教家たちも、やっていることである。それが、大であるか、小であるかの、違いである。

だが、カトリックは、彼女の死後、速やかに、聖人の手前である、福者という、称号を与えて、カトリックの広告塔にすべくの、処置であるから、情けない。
カトリックの、イメージアップに、利用するという、浅ましさである。

世界に、広げるが、決して、ただで金をばら撒くのではない、その新宗教である。
代表者は、ガンジー、キングと、自分の名前を並べての、展示会をするという、傲慢である。
結局、ノーベル平和賞を狙うのであろうが、叶わないだろう。
その心の、秘法を、実に、世界は、見抜いているのである。

人間が、あのように、厚顔に成り切れるという、見本を見るのである。

勿論、多くの世界では、金に結びつく故に、顕彰、顕彰、また、顕彰して、更に、感謝状授与等々、限りなくやるのである。
それだけ、組織を作り上げて、金の流れを作ったのである。

実に、上手な商売である。
勿論、信者は、それを善しとしている。

日蓮は言う。
南無妙法蓮華経と唱えるわが弟子の位は、諸宗の元祖よりも勝れたること、百千万億倍である。
さらに、わが門下は過去世を尋ねれば、八十億劫もの長い間、無量の仏に仕えた大菩薩である。

改めて、日蓮の、誇大妄想の様を知るのである。

このようなこと、多々、教祖という人々は、平然として言う。

八十億劫もの間、仏という、妄想に仕えたということなのであろう。
今に至るまで、その妄想から、抜けきれないでいるのである。

実に、哀れである。

再度、確認の意味で言う。
仏典は、漢訳されたものである。
訳したということは、訳した者がいる。
そして、訳されたものには、訳した者の、思想が混入する。
付け加え、付けたし、更に、手を加えて、上質な、文学とするのである。

仏典は、文学である。
文学は、迷いである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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