2007年12月07日

神仏は妄想である 7

佐賀県で、起こった、銃乱射事件である。
二人の方が亡くなった。
実に、痛ましい事件である。

さらに、犯人の男が、自殺した。
その場所が、カトリック教会である。

犯人の母親が、熱心なカトリック教徒だというから、さらに、その母親は、気の毒である。

これは、狂いである。
自殺するならば、一人で、いいが、人を殺しての、自殺であるから、その問題の根は深い。

キリスト教徒に、精神的疾患が、多いということは、あまりに知られていないし、それは、ある種の差別になるので、誰もいえない。

日本は、一応、仏教国である。
その先祖たちは、徳川三代将軍、家光の時世に、皆、寺に属することを強制された。
キリシタン禁制のためである。
それ以後、日本人は、皆、寺に、その名が残ることになるし、全員が、仏教徒としてある。

先祖の、癖である、仏教徒という、感覚を、死んでからも持つ。

それが、不思議なもので、後世の子孫が、宗教を変えるときに、猛烈に、反対することがある。

ある、禅宗の信徒だった、家系の者が、新興宗教に入信した。
しばらくして、異変がおき始めた。
夜中に、仏壇が、動くのである。
毎日続いて、私のところに、相談に来た。

その先祖が、敵対視していた、経典を、その新興宗教は、主として、帰依するのであるから、当然、先祖は、怒る。
だが、怒るということは、まだ、この世に未練があるということである。
未練がなければ、そんなことは、どうでもいい。

結果、その仏壇を、別の兄弟のところに、移すということで、解決した。

キリスト教を、嫌う先祖は多い。

私が、いいたいことは、死後も、自分の宗教に、拘り、捕らわれるということである。

それほど、宗教というものは、潜在意識に、影響する。
さらに、宗教の毒も、影響する。

これから、徐々に書いてゆくが、キリスト教というものは、大きく、カトリックと、プロテスタントに、分かれる。
ローマカトリック、そして、日本基督教団、さらに、アメリカから来た、多くのキリスト教新興宗教である。

新興宗教の方は、エホバの証人、つまり、ものみの搭である。そして、モルモン教である。
その他、日本で出来た、新宗教もある。

それらは、聖書を聖典とする。
モルモンだけは、教祖が、書いた、妄想の聖典を持つ。

韓国から、来た、統一教会という新宗教も、キリスト教の一派である。

事件の裏には、多くの問題が、潜在している。
心理的要素も、大きいが、誰も、先祖の因縁等を観る者は、いない。

問題は、実に、根深いものがある。

宗教は、人の創作したものであるが、それを信じると、それが、真実になる。
その、妄想から、逃れるためには、余程の覚悟が必要である。

先祖が、日蓮宗だった者が、キリスト教徒になると、精神的不安感を増大させて、信号を送るという、例も見た。
結局、神経症になったまま、人生を過ごす人もいる。

だが、その先祖も、初めから、熱心な信徒だったかというと、違う。
囚われた、だけである。

死後も、囚われる。

すべての、宗教にいえることだが、信仰に入ると、特別意識、選民意識を持つ。
自分は、救われる者だという、意識である。
そして、他の宗教の者、その救いに無いと、判断する。
あるいは、自分の宗教が、最高のレベルで、他は、まだ、未熟であるとする。

キリスト教徒や、イスラムの場合は、特に、それが、強い。

勿論、救いというものが、妄想であることを、知らない。
流れる雲に、救いを説くことは、しない。
しかし、人間の生きるということは、流れる雲に変わらないのである。

ここが、問題である。
キリスト教は、人間は、生まれた時から、罪があるという。
原罪というものだ。
真っ赤なうそである。

兎に角、何からの、救いかということを、創作した。
原罪意識である。

日本でも、親鸞が、それに似た、意識をもった。
それは、作家の太宰治も、そうである。
しかし、それは、病である。

救いではなく、その、病を治すことを、考えるべきである。

原罪説の、嘘は、アダムと、エバという、存在が、嘘であるということからも、解る。
創作である。

あえて、罪意識の創作をするというのは、単に、支配するための、教義である。

ユダヤ人キリスト教から、奪って、白人のキリストを掲げて、ローマカトリックが、興った。それは、時の、権力者、皇帝と結託して、出来たものである。
本当の、キリスト教徒は、異端として、退けられ、さらに、殺された。

その、発生過程を見れば、嘘が、解るのである。

明らかに、宗教には、作為がある。
組織を作り、体制を整えるということは、大きな作為がある。
権力志向である。

キリスト教国、イスラム教国ともに、政教一致である。
為政者には、宗教が、最も良い、支配の手段になる。

無いものを、あるものと、信じ込ませて、支配するのである。
実に、利用価値のあるもの、それが、宗教である。

さて、事件によって、亡くなった方の霊位である。
突然の死に対して、どのような、感覚を持つか。

霊学から言う。
ただ今は、気絶している状態である。
それが、いつまで、続くのかは、解らない。
意識が、昏睡状態である。

多くの人の、慰霊の思い深くして、早く、目覚めて、霊的存在であることに、気づくことである。

このようなことの、起こらないような、政府、行政の、あり方を考え、そして、更に、日本の伝統的考え方である、罪を憎んで、人を憎まずという、実に、人道主義といえる、考え方をもって、望むことである。

日本の伝統的考え方は、生きるに、実に、豊かな、ものの考え方である。
それは、決して、教義とならないのである。
自然に、人が生きるために、あるべき思考法をもって、望むのが、日本の伝統である。

ちなみに、どんな、宗派の先祖でも、神道の祝詞に対しては、抵抗しないということである。
神道は、宗派とは、別して、当然であるという、伝統にある。

それは、皇祖皇宗による。
天照大神に対しては、宗派の如何に関わらず、抵抗しない。
私は、清め祓いを頼まれると、必ず、その家の宗派の経典を、読経し、最後に、祝詞をもって、清め祓いを、行う。

そして、ちなみに、日本の古神道には、妄想は無い。
教義も、教祖も無い。
宗教ではない。
それは、日本人の自然観であり、その自然観が、そのまま、自然崇敬に至り、それが、神道という形で、現されるのである。
自然崇敬は、先祖崇敬と、同じである。
死ぬということは、自然に隠れる身とするからである。
死ぬのではなく、隠れた存在になると、観る。
実に、真っ当な感覚である。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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