2007年12月06日

神仏は妄想である 6

ここで、改めて、断っておくことは、私は、信仰を否定するものではないということである。

私は、宗教団体が、神仏の名を使用して、人を騙すことを、言うのである。

例えば、浄土宗、浄土真宗を言う。

法然や、親鸞が、どのような境地で、念仏信仰を説いたかということである。
今、それを、継ぐ者は、どこにもいないのである。

本願寺というのは、浄土真宗であり、浄土宗の本山は、京都、知恩院である。
それらが、本当に、宗祖の教えを守り続けているのかといえば、全く、逆である。

彼らは、形式と、迷信を配したのである。
つまり、仏壇、仏具等々、先祖供養も、否定したのである。

親鸞は、歎異抄にて、はっきりと、父母のためには、念仏しない。何となれば、自分が救われれば、自ずと、父母は、救われるのであるという。

有名作家が、親鸞の教え、また、その系統を継ぐ、蓮如などの思想を、まことしやかに、語るが、単に、それに、酔うのである。
あたかも、自分も、求道の者であるかのように、装う。あたかも、そのように、演じる。そして、それに、酔うのである。
勿論、本人は、真剣なのだろう。
小説を書く事無く、そのような、教えを書き始めたということ、文学の堕落である。

それなら、借金返済のために、大作を書いた、ドストエフスキーの方が、まだ、作家として、真っ当である。
ただし、彼のテーマも、手薄なものである。
文章が重厚であるから、騙されているだけである。
キリスト教の、罪と罰を、いくら考えても、詮無いものである。

日本でも、キリスト教の原罪をテーマに、小説を書いて、デビューした、女性作家がいるが、原罪というものは、妄想である。
それを、問うということ、遥かに、おかしい。
人の心の中にある、氷点というらしいが、それは、己にあるのであり、人皆にあると、信じ込むのは、実に、誤りである。

それなら、仏教の、無明の方が、ぴったりとくる。
無明とは、アホであるということである。
人は、皆、アホの境地を持つというなら、話は解る。

生まれ持っての、原罪とは、大嘘である。
アダムとエバなど、存在していないのである。
彼らが犯した罪が、人類の罪であるという、とんでもない、権力者の支配を強めるために、出来た教義は、妄想以外の何ものではない。

さて、念仏宗の、様々である。

今では、親鸞の教えも、廃れて、金ぴかの阿弥陀如来を掲げて、それを、拝むというから、笑う。
そして、それらの、座主である。
僧侶としては、終っている。
始末に終えないのである。

もし、法然や、親鸞が、生きていたら、彼らは、迫害するであろう。

教えの、全く逆を行為行動しているのである。

哀れなのは、それらの、信徒である。
せっせと、寺に、寄進、つまり、なけなしの金を運ぶのである。
それらは、皆、僧侶の、飲み食い、果ては、女を買う金に変わる。
仏に差し上げているというが、仏は、金など、欲しない。誰のものになるかといえば、寺のもの、僧侶のものになる。

僧侶の、割烹での、会話を聞いた。
皆々、ニコニコとして、この商売は、やめられない、と、言う。
仰天するのである。
信徒が、どんな思いで、布施をしているのか、知らない。

信長が、比叡山焼き討ちをしたのは、実に、正しい。
今も、すべての、寺院を、焼き討ちすべき時期が、やってきた。

高僧、老僧の、耄碌した話を聞いて、涙を流す時代ではない。
彼らは、どんなにか、豊かな生活をしていることか。

全く、御伽噺のような、読経をして、平然としていられるという、その根性は、どこからのものか。

鎌倉仏教が、現在の仏教の大元である。
文学としての、鎌倉仏教は、評価するが、完全迷いの仏教を創作したということは、事実である。
また、仏陀の仏教ではなく、漢訳され、仏典の仏教を、更に、妄想逞しく、創作したということである。

ホント、いい迷惑である。

人は、行為によって、成るものに成る、という、仏陀言葉を借りれば、今の、浄土宗、浄土真宗の僧侶などは、自害して果てるべき、罪をを、負うこいうことである。
勿論、死後は、極楽どころか、地獄に落ちるのが、真っ当である。

ちなみに、彼らは、法然や親鸞が、霊界のどこにいるのかを、知らない。

さて、極楽にいるのでしょうか。

何か、聞くところ、法然は、日蓮と一緒にいるようである。
当然である。
念仏唯一、題目唯一と、根は、同じことを言うのであるから。

それでは、親鸞は、どうか。
今でも、地獄は、一定住みかとかいい、思索に耽る、何とも、表現出来ないところにいるようである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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