2007年12月05日

神仏は妄想である 5

この一年ほどの間に、ある、新興宗教の勧誘をされて、迷惑しているという人の、相談を多く聞いた。

その教団は、新しい伽藍を建てて、必至の金集めをしているのである。
つまり、信者獲得のために、信者を最大限利用している。

信じる者は、騙されるので、信者は、すべて、騙されている。

仏教を掲げるが、全く仏教とは、異質のものである。
まず、密教から出ている。
教祖は、天台の資格を得て、仏像製作にいそしみ、新宗教を立てた。

天台密、真言密、そして、S如密というから、密教である。
密教は、仏教ではない。
天台も、真言も、そうである。
インド、バラモンの呪術を主にした、仏教に似せた、魔界からのものである。
それでは、チベット密教はと、いうことになる。
チベット密教も、仏教ではない。
土着の信仰に、インドバラモンの、呪術を重ねて、更に、独特の、教義を打ち立てたものである。

その、教団の主たる経典は、涅槃経である。
最高の経典であるとする。
創作の経典であり、全く、何の根拠も無い。

最も、恐ろしいのは、教祖一家を奉ることが、主であり、仏陀などは、論外なのであるから、仰天する。

教団独自の、用語を作るのは、どこも皆同じであるが、あまりに、低級である。
また、教団の霊能者を養成する。

その、養成所に、勧誘されて、困って、私に、相談に来た人もいる。

名刺大の、特別お札が、三万円である。
特別な人しか、手に入らないという。
私の手元に、それがある。
護摩焚きをして、作ったものである。

お守りであろうが、何の波動も無い。

さて、本部に行った。
立川から、八王子という土地柄は、インド魔界の神々に、占領されている場所である。
あの辺りにある、宗教施設は、その通り、魔界からの、関与が大きい。
魔界の関与の大きなところは、人の心を惹きつける。

正しく次元移動しない、霊の溜まり場になっているのである。
本部を、極楽だと、信じている霊が、多数、漂う。

後に、あれを、清め祓いするのは、大変なことになると、感じた。

タイ・バンコクの有名寺院から、仏舎利を頂いたというが、金にあかせて、手に入れたものである。

信徒は、兎に角、毎月、小銭を多くの人から、徴収させられている。
ご供養と称して、一人五百円を徴収するのである。
広く、信徒に、そのような、行為をさせている。
信者ではない人からの、金集めである。

信じる者は、騙されるから、せっせと、人から、五百円を集めて、それを、本部に奉納するというか、吸われる。

信者の一人が言う。
法華経は、書き上げられて、500年の効力しかない。最後は、涅槃経によって、救われると。
しかし、何からの救いなのか、誰も知らない。

生長の家と、同じく、宗教の関わらず、入会することが出来るという、許容範囲である。一見、拘りがないように見えるが、それは、手である。
兎に角、信者、会員を、一人でも増やしたいのである。

人が増えれば、金も集る。

本当に、現世の人を救いたいと思うならば、宗教など、作らない。
教祖にも、ならない。

信仰は、迷いだからである。

仏陀、イエスキリスト当時の、時代は、今と違う。
その土地だけの、情報の中に、生きて、その現状に、沿って生きるしかない時代である。
そこに、いながらの、生きるということである。

イエスの言葉も、拡大解釈されて、イエスの本当の真意を知る者は少ない。
世界の、果てまで行き、教えを伝えよとイエスは、聖書の中で言うが、創作である。また、世界の果てなど、当時の人は、知らない。
限定された世界の中である。

自己顕示欲。教祖の、資質は、それに尽きる。

三蔵法師玄奘が、億万の衆生を救わんがために、と、天竺に、教えを求めて行った、精神とは、根本的に違う。
死ぬまで、求道の旅をしたのである。
ただし、法相宗という、一派を立てたことは、事実であるが、教祖ではない。仏陀の教えの一端を、明示しただけである。

その、法相宗も、滅びたと言ってよい。
日本では、薬師寺が、それである。
いつも、寝ぼけたことを説教している。

そこの、教団に入信して、良いことづくめだと言うが、悪いことづくめになった人の話は、無い。
どこの、宗教も、そうであるが、良いことづくめを言うが、それ以上に悪いことづくめになった人の方が、多いのである。

法華経系の宗教団体の、新聞を見ていると、必ず、苦難苦悩から、法華経によって、宿命転換をして、今に至るという、記事が載る。

順風満帆だった、人生が、離婚によって、最悪なものになり、家のローンだけが残り、悲嘆に暮れていた時に、勧誘されて、入信し、それから、どんな困難も、乗り越えて、今に至ったという。
その間には、子宮筋腫、自律神経失調、緑内障、変形性股関節症、硝子体網膜牽引症候群、胆のう摘出等々の病を、克服したという。

違う。
知らずに、法華経の因縁掘り起こしによって、悪因縁ばかりを出した故である。
それを、超えてきたというから、信じる者は、盲目になるのである。

良くなった人が、一人いれば、悪くなった人は、一万人以上いるのである。

悪くなった人の相談を受けていた私は、それらの、嘘が、よく解るのである。

高僧、老僧といえば、何やら、特別の感慨を受けるが、迷いの、そのままを、生きたということである。
彼らは、言葉遊びに始終して、蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることもせずに、安穏として、あろうことか、苦難の修行をして、と言うから、仰天する。

苦難を生きる人は、蒔き、刈り、捕り、作る人を言うのである。

修行は、好きで勝ってにやっていることであろう。
褒められたものではない。
また、そのようしか、生きられなかったのである。

実に、妄想の仕業をもって、云々する、宗教というもの、皆々、嘘である。

実際、日本には、宗教というものがなかった、世界でも、稀な国である。
日本には、伝統と呼ぶ、自然共生、共感の、有りのままの、所作しかなかった。
その名称さえ、なかった。
仏教により、仕方なく、神道という言葉で、区分けしたのである。

そして、日本の神は、カミであり、欧米のアラブの、様々な神の、唯一のというものはない。

山川草木、すべてが、カミであり、それらは、人間に、分配されるという意味での、カミであった。
言挙げしない、自然が、カミの象徴としてあった。
自然の恵みが、分配される。それを、総称して、神と、呼び、更に、死者を、命、
みこと、として、神と、称したのである。

死者に、命、という、文字を当てたということに、驚嘆する。
命は、いのち、とも、読む。

命は、寿命ではない。
命、大いなる、いのち、のことである。
死者は、大いなる、いのち、の中に、入るものであるという、真実を知っていたのである。

故に、死者を、隠れた存在として、認識した。

そこに、教義という、言葉遊びは、一切無い。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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