2007年12月04日

神仏は妄想である 4

長野県小諸市の、新興宗教の殺人事件で、解ったことは、暴力が、常態化していたということである。

単なる水を、奇跡の水として売っていたというのは、可愛げがあるが、結果、暴力常態化という、状態に陥るのである。

すべての、宗教が、そうであると、断言できる。

小諸の新興宗教の話ではない。
皆々、宗教とは、そのような状態に陥るのである。
何故か。
そこに、魔がいるからであり、魔が、宗教を作るからである。

野心の強い、霊、この場合は、悪霊、邪霊、浮遊霊、そして、魔界の霊団である。

ちなみに、言うが、宇宙には、神ではなく、霊がいるのである。
その霊体が、便宜上、神と名乗ることもある。
特別な場合である。
そういう霊体は、高い次元の空間にいる。
次元の波動が、違う。

また、そのような、高い霊の世界に在る霊は、基本的に、奇跡ということを、起さないのである。

さて、宗教団体の暴力である。
背後の霊団が、暴力団のような霊団であるから、結果、信徒が、その波動に、凶暴化する。
そして、他の宗教をはじめとして、自分たちに反対する者、逆らう者、批判する者、等々を、暴力にて、抹殺しようとする。

あの、O教団は、武器まで製造して、国内戦争をしようとしていた。
驚くべき、暴力の、様である。

ここ数年でも、小さな教団、新興宗教による、殺人事件や、奇怪な事件が多かった。
すべて、邪霊、悪霊の類が、憑いたのである。

そのような霊が憑けば、当然、威力を増し、信者をどんどんと、増やす。
人は、悪に惹かれる。勿論、信じる人は、悪霊などとは、思わない。それを、神だと、信じるのである。

新興宗教から、また、新宗教が、続々と現れるというのも、霊の分散である。

邪霊、悪霊、まして、魔界の霊団が、調和することなどない。
分裂に、分裂を重ねる。

大本教から、分散した、宗教は、数知れない。
それほど、大霊団による、宗教創作だった。

勿論、仏教系も多々ある。

そして、キリスト教系である。
続々と、新宗教が、創作された。日本的に、変形してである。
牧師が、少女たちに性的暴行を加えていたという、事件もあった。

婦女暴行事件は、宗教内では、数限りない。
マスコミが、書かないだけである。
いや書けないのである

小諸の宗教を見れば、宗教というものの、いかがわしさが、よく解る。
巨大な神社を建てた。信者の金である。それで、更に、金を集める。
騙される信者が、アホだが、信じ込むのであるから、救いようが無い。

しかし、皆々、宗教というものは、その程度であるということ。

神社などは、誰でも建てられる。
教祖になるもの、いつからでも、なれる。
適当に、寄せ集めた教えを述べていれば、事足りる。

簡単な祝詞一つで、般若心経一つで、新宗教を起せるのである。

祝詞も、人の作ったものである。
霊感に導かれて、言葉が出たと言えば、それも、事足りる。

兎に角、騙されたい人がいるということである。

長年に渡り、精神的放浪をしてきた人が言う。
様々な、宗教や、精神世界の集いに出たが、結局戻ったところは、自分の心だったと。
そして、伊勢神宮にお参りに行きたくなりましたと言う。
それは、よいことである。
お参りするには、何の問題も無い。

伊勢神宮では、神道の布教もない。強制も無い。
ただ、拍手して、お辞儀をして、拍手をして終る。
後は、古代の森を、歩けばいい。

それが、伝統である。

日本には、このように、自然な伝統がある。

狂信、盲信の類は無い。

伊勢神宮に病気治しや、奇跡を求めて行くこともない。
ただ、お参りなのである。

世界中から、ルルドの聖水を求めて、巡礼するというが、聖母出現で、奇跡の水が出るということに、不思議は無い。
魔の力であれば、そんなことは、朝飯前である。

聖母が魔であると言うのではない。
聖母である、証拠は無い。
ただ、現れた姿を見て、聖母マリアだと、信じたのである。

ルルドの水で、治る人より、死ぬ人の方が多いこと、誰も言わない。

心底、騙されたいのである。
それを、総称して、愚かという。

ちなみに、私は、出現した聖母が、祝福したという、蝋燭を持っていた。
今は、使い果たして、無い。
その預言が、1999年の、世の終わりの時に、世界が暗闇に陥るため、その蝋燭で、光をというものだった。

聖母の出現について言う。

その姿を現している霊は、何物であるかということである。

同じく、神や、仏、も、そうだ。

我は、観世音菩薩であるというならば、真っ赤な嘘である。
そんな存在はない。
観世音菩薩は、それを訳した、クマラジュウの言葉である。

強力な霊能力を持った、新宗教がある。
それは、また、分散して、宗教を科学として、教団を立ち上げ、大々的な広告宣伝により、立派な建物を建てている。

教えは、漫画である。
耳障りの良い言葉を並べての、教えは、頭の弱い人を、取り込んだ。

多くの霊言集を出した。
そんなに多くの神様、仏様が、懸かるというのである。
魔としか、いいようがない。

昔から、多くの神、仏を祭ると、悪いことばかりが起こると言われることを、知らないようである。

一人の霊が、分裂的に、語ることを、信じ込んでしまったのであれば、哀れである。
他の宗教の、教祖の霊言集まで出して、信者を獲得しようとしたことも、見え見えである。

こうして、低レベルの霊から、通信を受けて、それを、布教するという、哀れさは無い。そして、その信者である。
さらに、もし、それが、単なる創作ならば、更に悪いのである。
人の心を、玩ぶ、商売とするのである。
すべての宗教が、そのようである。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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