2007年12月03日

神仏は妄想である 3

仏典、大乗仏典というものは、次々と、書き足されていった。
要するに、様々な人の、意見が取り入れられて、しまいに、訳する者が、また、手を入れるという、とんでもないことをしているのである。
経典、果たして、そんなものが、経典と成り得るのか。
成り得ているのが、仏教である。
故に、支離滅裂になる。

しかし、宗教家というのは、本当に、おめでたいというか、抜書きして、勝手な解釈をする。
何とでも、言えるのである。
それが、ミソ。

例えば、禅というもの。
何とでもいえる。
言葉で、人を煙に巻くのである。

だが、これからの時代は、かろうじて、その、禅が、残りそうである。
後は、子供の遊びのようなものであり、時代に、対処出来ない。

禅というのは、言葉遊びの、骨頂である。

至道無難という禅者の歌。
草木も国土もさらに なかりけり
ほとけといふも なおなかりけり

どうであろうか。
つまり、すべての観念は無い。あるのは、仏のみであるという。
すべてが、仏であるというのだ。
絶対否定から、悉皆成仏、つまり、すべてが、仏であるという。

こういうのを、言葉遊びという。

いわばしる 垂水の上の さわらびの 萌えいずる春に なりにけるかも
志貴皇子 万葉集

なかりけり なおなかりけり
それも、観念である。
それでは、志貴皇子の歌は、どうか。
目にした、春先の様を、そのままに、歌う。どちらが、自然か。
これを、古神道という。
自然と共感、共生している。

国土も草木も、仏も無いなどという、浅はかな、歌は、読まないのである。
言葉遊びと、神、自然に遊ぶのとは、違う。
自然は、神であった、日本民族である。
そこに、あたかも、在るかのように、思想という言葉が、入ってきた。それは、文明の進化としては、善し。しかし、それを、信仰という形に、観念に、置き換えたところが、勘違いである。

それを、後押しした、哲学者、西田幾太郎がいる。

宗教的意識においては、我々は心身脱落して、絶対無の意識に合一するのである。そこには真もなければ、偽もなく、善もなければ、悪もない。宗教的価値というのは価値否定の価値である。

というのである。
呆れる。
加えて、無も無いと書けばよかったのに。

死ぬまでの、暇つぶしにはしては、凝っている。

こういうのを、西洋かぶれ、と言う。
西洋哲学の方法を、持っての、言葉遊びである。

それなら、道元に適わない。
道元の言葉は、見事な、実存哲学である。

その、道元も、仏の家に投げ入れて、と、仏の家の観念を持つ。
要するに、心身脱落を言うのであるが、心身を脱落して、どうするのか。

大悟するというのであろう。
天地宇宙と、一体になるのである。

こういうのを、アホ、バカという。
天地宇宙と、一体になり、糞小便、垂れ流して生きるのである。

それを、言うなら、いない方がよいということになる。

こういう、たわけたことに、真剣になる者もいるのである。

人は、生きられるようにしか、生きられない。

大悟する人は、大悟しか、生きようがないのである。
更に、悟るということも、観念である。
自己満足の、一点に尽きる。

ところが、禅では、考案といって、師匠から、師家から、問題を出されて、それに、答えて、悟りありと、認められるというから、また、笑う。

両手を打つ。どちらの手が鳴ったか。
右でも、左でもない。
心が鳴ったのである。

船が通る。
船が動いたのか、海が動いたのか。
心が動いたのである。

アホらし。

蒔くことも、刈ることも、捕ることも、作ることも、せず、言葉遊びである。そして、托鉢というから、さらに笑う。

生きている価値があるのか。
無い。
死ぬべきである。

坊主のところには、金が集る。
その、金を目当てに、また、それを持ち上げる、思想家がいる。
今は、宗教評論家である。

心の軽くなることを書いて、本を売る。
実に、宗教の堕落である。

舒明天皇の歌。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
ゆうされば をぐらのやまに なくしかは こよいはなかず いねにけらしも

あるがままを、歌う。
自然と、共感、共生する。
何事も無い。
観念の遊びがない。

道元の歌。
峰の色 谷のひびきも 皆ながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

すべては、釈迦であるという。つまり、仏の姿であるという。
観念にやられたのである。
釈迦という、観念である。

私は、
今夜は鳴かず 寝宿にけらしも
である。

我が釈迦牟尼という、妄想は、無い。




posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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