2007年12月02日

神仏は妄想である 2

観音様という、菩薩がいる。
架空の存在である。

仏陀在世当時の、修行者だという説もあるが、作り事である。

観音様には、様々な観音様がいる。
私は、その一つも否定はしない。
ただ、観音経という、お経から出たものであり、その実体は無いということである。

観音経は、大乗仏典の、法華経の中に入っている。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品、かんぜおんふもんぼん、である。
現在使用されている、法華経の漢訳は、名訳である、鳩摩羅什、クマラジュウの訳である。

勿論、別の訳のものもある。
例えば、正法華経とか、添品妙法蓮華経というものである。

この、妙法蓮華経に、帰依するという、南無妙法蓮華経というのが、題目である。
念仏は、阿弥陀に帰依すると、南無阿弥陀仏と、唱える。

一つは、お経に帰依するといい、一つは、観念に帰依するというから、おかしい。

兎に角、鳩摩羅什という人は、文学の天才であった。
内容より、素晴らしい漢訳をした。
読経するには、最高の訳をしたのである。
その人の話を書けば、先に進まないので、省略する。

日蓮は、すべての、宗派を否定し、妙法蓮華経により、救われると、説いた。
非常に排他的で、非寛容である。ただし、内輪には、大変、寛容で、やさしい。

御伽噺のような、法華経を、格調高く訳した、鳩摩羅什の訳に、取り込まれたのである。

その姿は、一神教に似る。
私は、すべての宗教を否定する。しかし、日蓮のように、だから、これによって、救われるというものを、提示しない。
後々に、本当のことを、書く。

さて、私の前に、仏教の様々な仏を、徹底否定した人がいる。
江戸時代の、儒者である、山方播桃、やまがたばんとう、である。
著書の、夢の代、という本に、霊魂の否定、神、仏の否定、更に、仏教批判を展開している。
仏教に、教義なるものは、皆無であるが、彼は、仏教の教義を、徹底否定し、批判した。

日本の生んだ、天才的思想家としての、一人であるといっても、過言ではない。人が知らないだけである。

観音、薬師、地蔵、阿弥陀等々を、坊主の作り事と、断定したのである。
確かに、それは、作り事である。

ただ、日本に、仏教が入ってきた時に、教えより先に、仏像製作が行われた事実がある。つまり、造形の方が先になった。
それを、拝む行為としての、仏教であった。
要するに、像を拝む宗教だった。

教義等々は、後の話である。

実は、観音様というのは、仏教のものではなかった。
西アジアで、拝まれていた神の一つであった。それが、変形して、仏教に取り入れられたものである。

現在、日本で、拝まれている、仏教系の、帝釈天や、弁天様なども、インドの神々である。
混在しているのである。
要するに、適当なものである。

観音様というものは、その像を通して、認識された。
つまり、人間の芸の技である。
・・・のような、美しい観音様、である。
この、何々のように、美しい観音様と、人間の想像の産物である。

それでは、観音経では、観音を、どのように説明するのか。
ただ、一心に観音を念ずれば、すべての問題は解決し、観音の力によって、奇跡が起こるという。念彼観音力、ねんぴかんのんりき、である。

例えば、こうである。
もし是の観世音菩薩の名を持する者あらに、たとい大火に入るとも、火も焼くこと能はず、是の菩薩の威神力によるが故に、もし大水の漂はす所となるも、その名号を称せば即ち浅き所を得ん。
というのである。
火にも、焼かれない。水にも溺れないという。

ところが、人は、観音様を唱えても、火に焼けるし、水にも、溺れるのである。
それに対して、宗教家は、言う。
観音様の、実相は、無想であると。
つまり、人の心の様を言うと。

信心が薄いから、云々という言い方もあるが、少し、知恵がつくと、うまく、逃げるのである。

確かに、観音というものは、人の心の在り様である。

火に焼かれても、水に溺れても、死んでも、無想であることを観ることが、観音を観ることだという。

実に、良い説明である。

とすれば、観音でなくても、いいのである。
何故、観音様を掲げるかといえば、人間は、弱い者だからである。
何かに、縋る、すがりたいという時に、目に見えるものが欲しいのである。

彼ら、宗教家は、何とでも言うことが、出来るというのが、ミソである。

実際、私も、観音経を上げることもある。
その、音が好きだからである。

その名を称するが故に即ち解脱することを得ん。
そのように、書かれている。
書かれているから、事実ではない。
要するに、そう思うことであるというのだ。

思い込みという、心の状態が、信仰というものを、確たるものにする。

一度、信じたものは、嘘と、解っても、捨てきれないというのが、人間の、悲しさである。たとえ、捨てたとしても、別の神様を拝みたくなる。
何かを、拝みたくてしょうがない人も、いるのである。

観音が、心の無相であれば、何も実体が無いということである。
また、観音自体も、無相である。
これは、つまり、大乗の教えの、空から、出るものだ。

空という、人知では、計ることが出来ない、境地、空間をもっての、解説である。何を、どのように、説明しても、成り立つという。

私は、宇宙の外でなければ、空という、状態は、無いと言う。

話を元に戻すと、観音というのは、我が内にあるものである。
我が内にあるものを、観音という、総称にするということである。
それは、観音でなくてもいいということだ。

何でも、いい。

昔の人は、言う。
いわしの頭も、信心から、と。

すると、キリスト教徒は、言う。
何でも、信じれば、いいというものではない。
正しい神のみを、信じることであると。
すると、イスラム教徒は、言う。それが、アッラーの神であると。

一向に、妥協しない、強い信仰というものが、それぞれで、出来上がっている。

私は言う。
そろそろ、そういう時代に、別れを告げるべきである、と。

妄想の観念に、心を捕らわれにしている様は、愚かである。

まず、ここに、気づくことである。
話は、それからである。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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