2007年12月01日

神仏は妄想である

ある新興宗教の、観音経というものを、見て、仰天した。
神仏混合どころではない。実に、稚拙で、お経や、祝詞の継ぎ接ぎであり、内容が、渾然として、こんがらかっている。

どうして、このような、稚拙な文句に、信者が、気づかないのかといえば、単に、知識の不足だけではなく、基本的な、常識的教養を持たないからだと思う。

今、その経典を、ここに書くことは、控える。あまりにも、稚拙であり、また、ここに載せれば、弊害があると思う。

その、新興宗教は、ある、新興宗教から出た。その、大元は、大本教である。
大本教とは、様々な、新興宗教を産んだ、大元である。
つまり、魔界関与であるこというは、このように、証明済みである。

霊団の眷属が、分散したのである。

今は、霊的なことに、触れないが、宗教というものの、原始的姿を観た。

どんな、小さな宗教団体でも、唱える経典を作る。
多くが、既成の経典、特に、仏教経典から、借用する。

例えば、足裏診断で、詐欺罪に問われた、天の声の、教祖は、般若心経を、信者に唱えさせた。
勿論、般若経から出た、般若心経のことなど、知ることもない。
単に、適当に、説得力があるゆえの、盗用である。

現在使用される、般若心経は、玄奘三蔵法師の訳である。
それ以前は、クマラジュウ訳であった。

特徴は、玄奘は、観自在菩薩である。
クマラジュウは、観世音菩薩である。

玄奘は、自在と訳した。観世音とは、違う。
つまり、お経には、訳した者の、思想が入る。当然である。
玄奘は、自在というように、我が内に在るものと観た。
外に在るものではない。内にある存在である。

しかし、これは、梵語からの訳である。それを、漢訳した。
さらに、それを、日本では、漢読みする。要するに音読みである。訓読みすれば、大和言葉に成る。

これ程、不自然なものはない。
それを、読経するのである。

内容は、あたかも、深遠で、壮大な思想を語るようであるが、単なる、言葉遊びである。
大乗思想は、空の思想であるが、その空の思想とは、実に、妄想である。
この宇宙に、空という空間は無い。
宇宙を出て初めて、空という空間がある。

大乗の空観は、インドの言葉遊びに始終する。
それを、皆々、真理だの、なんだのと、勝手に解釈する。
大般若経を読まなければ、実は、般若心経も、理解出来ないはずである。

色即是空 空即是色
物即是無 無即是物である。

何のことは無い。
桃太郎や、浦島太郎の、物語も、読む側の問題である。つまり、解釈の仕様で、如何様にでも、なる。それと、同じである。

漢字の難しいイメージが、深遠さを、語るようだが、軽薄である。

仏典とは、多くの人によって、書き足し、次々に加えられて、膨大になっていった。
般若経というものも、八千の章があるという。
大乗仏典は、その般若経から、出た。維摩経しかり、法華経、華厳経である。また、それとは、異質な、浄土経典も、はやり、それを母体にしている。

そして、その元は、二世紀の、インド哲学というか、仏教学というか、何ともいえないが、龍樹・ナーガールジュナによって、説かれ、更に、五世紀の世親・ヴァスバンドゥによって説かれた、世界には、固定した実体は無いとした、あらゆるものは、空であるという、思想からである。

彼らの、死ぬまでの暇つぶしに、付き合う必要はないが、あまりに、人々が愚かに、唱える故に、書くことにした。

甚だしい場合は、浮遊する霊を成仏させるために、唱えるというものもあり、驚くのである。また、霊の供養のためにという場合もある。

更に、甚だしいのは、霊能者と言われる者も、平然として、唱えるのである。

唱える方も、解らない。唱えられた方も、解らないという、滑稽な展開である。
笑うに、笑えないのである。

更に、読経した後の、功徳という。
功徳とは、功績とか、お返しとか、褒美である。
そんなことが、ある訳が無い。

更に、日蓮などは、法華経でなければ、救われないというから、また、とんでもなく、おかしくなる。

経典は、あくまで、本である。
本を読んで。お勉強になるということは、理解するが、それが、唯一絶対のものとなれば、言わなければならない。

小説を読むと同じように、経典も、読むべきである。
何故なら、書かれたものである。
書かれたという、時点で、それは、過ぎ去るものである。
過去の、考え方である。

過去の考え方に、普遍的なものがあるというのも、一つの思想である。

書かれたものは、お話である。

更に、古いものであり、云々ということの、話は、何の真理も無い。
それが、妄想のものであれば、妄想に過ぎないのである。

更に言うが、漢訳されたということは、漢訳した人の思いが入り、書かれていないことまで、書き足すということもあるということである。
特に、仏典の場合は、そうして、書き足されて、膨大なものになったのである。

浄土経典などは、付き合い切れない程、アホらしい話が延々と続くのである。
そんなものを、死者に唱えて、成仏も何も、あったものではない。
有り難迷惑というものである。

しかし、実際、日本仏教では、それを、唱えて善しとしているのである。
マジである。

信じられないの一言。



posted by 天山 at 00:00| 神仏は妄想である。第1弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。