2007年11月20日

キリスト45

復活したイエスの現れた記述が、マルコ第16章に書かれる。マルコの最後の場面である。

そののち、イエスはかれら十一人が食卓についているところに現れ、その不信仰とかたくなな心とをおとがめになった。復活した自分を見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスはかれらに仰せられた、「全世界に行き、造られたすべてのものに福音を述べ伝えよ。信じて洗礼をうける者は救われ、信じない者は罰せられるであろう。信じる者には次のようなしるしが伴う。かれらは、私の名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語る。へびをつかみ、毒を飲んでも、決して害を受けない。かれらが病人に手を置けば、その病人は回復する。」

まずこれは、彼らの願望である。
復活したという、願望が復活したという、信念に変わり、ついに、復活したイエスを描いたのである。

食卓についているところに現れたというのは、イエスの言葉、私の名において、二人以上が集えば、そこに私がいる、という言葉による。
実際、イエスの霊は、弟子たちの場にいたであろう。
そして、弟子たちが、自分たちの、信仰の薄いことを嘆く。
何度も、イエスから、言われた言葉、信仰薄い者たちよ、を思い出す。

そして、弟子たちは、イエスの言葉を反芻して、納得し、ついに、上記のイエスの言葉となる。
しかし、実に、この頃、すでにに教団としての活動の一歩が始まっていたことを、推測できる。
それは、洗礼である。
水による洗礼も、信じることで、変容するという考え方を持った。
当時は、洗礼など、多々あったからである。

イエスを信じる洗礼である。
しかし、主イエスは、水による洗礼ではなく、霊による洗礼と言った。それは、どんなことか。霊による、洗礼とは、古神道の禊である。
禊祓いである。
だが、ここで、キリスト教徒は、躓く。

ただ今の教会の洗礼は、水による洗礼であり、それを秘跡として扱う。
いくらアホが、水につかっても、アホである。
人間が変容するには、それ相応の経験と体験が必要である。
その人生経験を、霊による洗礼という。
信じて洗礼を受ける者は、救われる、と言うが、その救いが原罪からの救いというから、救いにならない。
救い、救いというが、誰も、救いの意味を知らない。
神学などは、妄想一辺倒のものであるから、一人相撲を取るようなものである。

救いとは、その妄想からの脱出である。

助けてくれ、と言うのは、助けて欲しい、問題が発生している時である。
神は、助けてくれると言っても、何をどう助けてくれるのかを、誰も知らない。
何からの救いかを、教会は、ハイ、原罪からの救いですというが、原罪自体、妄想の産物であるから、終わっている。
自分で盗みをして、自首して、自分で裁くような、滑稽な漫才のようなことをしていると、気づかないのである。

イエスの言葉と言うのは、弟子たちの願望である。
信じない者は罰せられる。つまり、ここで、教義の根本が出来上がっているのである。信じない者は、罰が与えられる。
イエスは、一度も、神の罰を言わない。
世の終わりの譬えの時だけ、罰に関する言葉があるのみ。罰に似たものである。

キリスト教徒の神の罰は、キリスト教徒のみに言える。だから、本当に、キリスト教徒は、注意すべきである。しかし、それ以外の宗教や、無神論の人には罰は当たらない。
日本では、罰の変わりに、祟るという神がいる。
罰と、祟りは違う。
罰は、自らが罰だと認めてなる。祟りは、降ってくる。突然、祟りがある。人生とは、そのようなものである。
罪と罰が、凄く好きなキリスト教であるから、何も言うことはないが、死ぬまでの暇つぶしには、ご苦労なことですと、言うしかない。

私の名によって悪霊を追い出し。
これが、キリスト教の最大の特徴である。
エクソシストという、悪魔祓い専門の司祭がいる。
悪魔、悪霊との戦いである。実に、戦いが好きな者たちである。
追い出しという観念には、悪いもの、嫌なものを、追い出すという、単純素朴、悪く言えば、稚拙、お馬鹿である。
霊を追い出して、それで、めでたしめでたしだと、解決には、なにらない。
キリスト教の中に、悪魔や悪霊の場所はない。
これが、仏教系や、我が神道系ならば、必ず、その場所を定める。
仏教では、地獄とかである。そこが、仏教の愚かなところであるが、まあ、地獄を悪魔の場所と定めるから、まだいい。魔界というものを、知らないのである。
神道では、荒ぶる神として、祀る。その場所を設ける。
ちなみに、東南アジアなどでは、仏教と、精霊信仰が交じり、小さな悪魔、悪霊の祠を用意する。そして、そこに、水や花を置く。
タイでは、ピーという霊の祠が、至るところにある。
バリ島では、道端に、花や食べ物をのせた葉を置き、祈る。
皆々、浮遊霊の場所になっているが、あれは、良いことである。その存在を認められているという霊に安心感を与えることにより、あまり、変な悪さをしない。

悪霊を追い出して、どうする。その悪霊は、どこへ行く。
キリスト教は、未だに、この問題の解決をしていない。
対立の思想は、ここでも始まっている。
聖書は、実に対立の思想である。愛の思想を言うイエスも、矢張り、敵というものを想定したのである。
敵を愛せよと、敵を想定している。
これが、仏陀になると、敵はいない。想定しない。

今、キリスト教徒が、へびをつかみ、毒を飲めば、害を受けて倒れる。
かれらが病人に手を置けば、その病人は死ぬ。

このマルコの復活のイエスの言葉は、弟子たちが、頭の悪い弟子たちが、一生懸命に考えて、主イエスなら、こういうであろうということを、言葉にして確認したのである。
勿論、イエスは、その場に霊としていた。
そして、呟いた、信仰薄い者たちよ、と。私の言葉で言えば、頭の悪い者たちよ、になる。

この福音には、その後の記述あるものもある。しかし、私は、それを紹介しない。
聖書の言葉は、あまりに漠然として、捕らえどころなく、混乱するからである。
例えば、私は道であり、真理であり、命である。と、主イエスが言うが、それ一つとして、明確なものはない。どうでも、解釈出来るのである。
道であり、真理であり、命である。
どうすればいいのか、この解釈を。
それをキリスト教は、すべてのすべて、とか、全知全能とか、永遠の永遠とか、しまいに、言葉に出来ない、神の偉大さ等々、皆、言葉にしているではないか。

仏陀もイエスも書き物を残さなかった。何故か。書き物によって、その言葉の意味を探ることに始終し、現実を生きないからである。

無益な議論に始終して、耕しも、捕ることもせず、人の物を貰って、のうのうとして生きるのである。
総称として、宗教家と言われる。
イエスは、彼らを、偽善者であると、言い切った。
モルモン教という、キリスト教新派があるが、教祖は、妄想により、アメリカの始まりを経典として書いた。嘘八百であるが、それを奉じる州があり、大統領まで出そうという勢いである。
単なる創作の夢物語を経典にするという仰天であるが、モルモン教徒は、真剣である。
しかし、聖書も、それに劣らず、である。

ここで、はっきりさせるが、経典というものは、文学である。それ以下でも、以上でもない。信徒は、その経典の信者である。
虫は、人間をどのように認識しているか。
次元の高い世界を、人間は、虫に劣らず認識できない。別次元のことを、この世の言葉にできない。ゆえに、高い次元を知るものは、書き物を残さない。残せば、嘘になるからである。

何でも経典にすることが出来るのである。
兎に角、人間は迷い、苦しみ、呻きたいのである。
それで、人生の本当の苦しみを忘れるという、アホなことをして、死ぬ。
ご苦労サンです。




posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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