2007年11月17日

キリスト43

ローマ人は習慣として、鞭打ってから十字架につけたという。
その死を早めるためである。
ローマ人の処刑のしきたりによれば、裸にして柱に縛り、先端に鉛のついた皮ひもや鎖で、容赦なく鞭打ったようである。

十字架刑は、政治犯に課される最高刑だった。

ピラトは、イエスに、何の罪も見出せなかった。しかし、群集が、それを求めるのである。だから、鞭打ちも、皆の同情を引くために行わせたようであるが、群集、つまりユダヤ人は、益々、感情的になり、エスカレートさせて、いった。
それほど、この頃のユダヤ人は、ストレスを感じていたのである。
ローマの支配か、ユダヤ教の律法か。
出口の無い、不満である。

政治から、私生活に至るまで、縛られる生活である。

十字架刑には、磔と、くぎづけの二種類あった。
イエスは、くぎづけされた。
くぎづけの方が、苦痛激しく、死も早かった。
両手を、そして両足は、揃えて、くぎを打つ。

昼の十二時になったとき、全地は暗くなり、午後三時まで続いた。そして三時ごろに、イエスは大声で「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは、「わが神、わが神よどうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。近くに立っていた人々のうち、これを聞いて、「見よ、エリアを呼んでいる」と言う者もいた。すると、ひとりが走って行き、海綿にすっぱいぶどう酒を含ませ、それをよしの棒につけ、イエスに飲ませようとして言った。「エリアがかれをおろしにくるかどうか見ようではないか」イエスは大きな叫び声をあげて、息を引き取られた。

その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニとは、詩篇の言葉である。
ダビデの詩、詩篇22章である。

わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか
なぜわたしを遠く離れ、救おうとはせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない
夜も、黙ることをお許しにならない

その中の一節に、こうある。

犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く
骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く

まさに、十字架刑を受けた、イエス、そのものである。

兎に角、旧約聖書の成就であり、また、それの凌駕である。

人類の罪の贖いのために、神は、その一人子を、世に遣わして、その死によって、人類の罪を許すという、キリスト教の最大の教義が、ここで、完成する。
しかし、ここに最大の欺瞞がある。

罪の最初を、原罪として、制定するという、あまりに愚かな考え方である。
つまり、人間の存在そのものを罪とするという、傲慢である。
それが、人間の生殖の性を、罪とするという、最低最悪の観念を作る。
人間の生存を支配する、その考え方は、一体、どこからのものか。

旧約聖書の最大の矛盾は、人格神ということである。
神に、人格を有するという。
あまりに愚かである。
それで、墓穴を掘る。

神に人格を認めれば、それは、神もどきであろう。
神ではなく、単なる人霊のことであると、認めているのである。
嫉妬と、試み、そして、殺し合いの神である。差別と、偏見に満ちた神である。

この一神教と、仏陀の思想や、日本の古神道を対比させて、考えると、よく解る。
それは、いずれの機会に書く。

今は、イエスの死である。
イエスの死が、世界に与えた影響は、大きい。
それは、ヨーロッパの歴史から、世界の歴史に関与したのである。
勿論、それは、イエスの思想である。
主なる神が愛であるように、互いに愛し合うこと。汝の隣人を愛すこと。そして、極めつけは、敵を愛すこと。
敵は、殺すべきものである。しかし、イエスは、それをも愛せよという。
しかし、ここに、非常に大切な問題がある。つまり、敵という観念である。イエスでさえも、敵という観念から、逃れることができなかったということである。

敵を想定して生きるという人生である。
結果、キリスト教は、イエスの愛を実践できたかというと、全くの逆である。
今もって、それを実行できずにいる。
異教徒は、矢張り、敵である。
つまり、キリスト教も、イエスの教えを実践出来ず、旧約の神観念のままであるということだ。それは、つまり、イエスの死を無駄にする。

簡単に言う。
あるカトリック教徒に、天照大神という言葉を発すると、同じ日本人でありながら、そんなもの、と言う。そんなものである。
ここに、彼らの、最大の欺瞞と、その信仰の嘘八百が見て取れる。

もう一つ言う。
キリスト教の宣教に、現地の信仰形態に乗せて、布教するという方法が取られた。
例えば、スペインに亡ぼされた国、現在の南米である。ペルーやブラジル等々。
そこには、地場の信仰対象を、聖母信仰に重ねて、キリスト教信仰を打ち立てた。その欺瞞である。

そして、最大の嘘は、従わない者は、皆殺しである。
カトリックは、この反省を一度たりとも、行っていない。
日本が、植民地化したことに、戦後始終しているが、キリスト教の国々の植民地化は、甚だしいのである。
しかし、一度たりとも、それを謝罪しないどころか、当然だと思っているという、傲慢である。
一神教のよって、世界は、救われないどころか、益々と、混迷を深めるのである。
それが、イエスの思想であったのか。

イエスは、十字架にて死ぬということを、受け入れた。つまり、言動一致である。
汝の敵を愛せよと言ったように、敵によって、殺された。それを、受け入れた。
しかし、キリスト教徒は、全く、逆のことをして、この2000年を生きている。
アイルランドなど、カトリックと、プロテスタントが、対立し、平気で、汝の敵を殺すという、愚かさである。

彼らの、言い分を一分も、私は、聞けないのである。

私は言う。
滅びよと。
その唯一の神、もろとも、滅びるがよい。
イエスの死を、最大に利用して、最大に、人類を欺くもの、それは、イエスの名において、罪を許すという、彼らである。
彼らとは、偽のキリスト教徒である。

彼らの言う神は、妄想である。

救いとは何か。
それは、自然との共生、共感に他ならない。
他の理屈は、妄想である。
人類の救いは、宗教ではない。宗教的なものによって、救われる。それによって、自然との、共生、共感が行われる。

それをやまと言葉で、言えば
なにごとの おわしますかは しられども かたじけなさに なみだながれる
ということになる。

信仰は、知性と理性を嫌う。それは、信仰が知性と理性によって、暴かれるからである。
無知を、神や仏に棚上げして、惰眠を貪るのである。

もう一つ言うが、彼らの救いに乗れば、確実に、魔界に通じる。何故なら、それは、妄想だからである。

私は、自分の霊的感覚や、霊界に関する思いを、妄想であると、突き放している。
死ねば解ることを、今更であると、思っている。

人生は、実に、空しく、愚かしく、冗談に満ちている。
なんとなれば、この人生が、たった一度だからである。
後戻りなど出来ない、一度だけの人生だからである。転生輪廻によって、もう一度、生まれ変わって生まれても、今の、私には、ならないという絶望である。

はじめから、絶望の存在なのである。
言葉遊びをするのではない。
最初から、生まれた時から、絶望の存在なのである。
何を、恐れることがあろう。
すべては、絶望から始まっている。

絶望から出発したのである。
生きているだけでも、私は、特上だと思っている。

そして、もっと、最悪なことは、皆、死に向かって生きているということである。
絶望からの開放が、死なのである。
つまり、死は、救いとなるのである。

あらゆる人生の諸相は、ゲームであると得心すれば、生きられる。どんな絶望にあっても、生まれた以上の絶望は無い。この絶望を原罪などという、誤魔化しに、私は、一撃を食らわすのである。

私は、実に宗教的であり、信仰深い者である。
それを、知るからである。

神も仏も、この私には、適わないのである。
先祖も、私の一存で、縁を切る。
祟るような、先祖に用は無い。

新しい時代、新しい世紀は、宗教という妄想からの開放である。




posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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