2007年11月16日

キリスト42

マルコ第15章である。
ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王か」とたずねると「そのとおりである」とお答えになった。

この訳は、別のものもあり、「私ではなくあなたがそういっている」というものもある。

要するに、ピラトは、イエスの罪を、ローマ法では、無実だと思うのである。
ユダヤ人の王というが、武器も、騒ぎも起こしていないのである。

他の福音書では、「私の国は天にあり」とも言う。

革命分子ではないことは、確かである。
しかし、ユダヤ人、その司祭、長老、律法学士たちは、イエスに死刑を求める。死刑にするめには、ローマの許可が必要だったからだ。

ピラトは、司祭長たちがイエスをわたしたのを、ねたみのためだと知っていた。
と、マルコは、書く。

そして、群集である。
ピラトは、イエスの死刑を回避しようと、一人の囚人を慣例に従って許すことにすると、群集に問う。すると、群集は、ピラトの意思に反して、バラバという人殺しの暴動者を許せというのである。

ここが、ユダヤ人を差別する根拠になっている。
イエスキリストを十字架刑にしたのは、ユダヤ人であると。
しかし、違う。
イエスは、旧約の預言通りに、死ぬのであり、ユダヤ人も、役者の一つである。

これで、ユダヤ人が、イエスを許せと言えば、新約の成就が無になる。

ピラトは、再び、群集に「あの人は、どんな悪事をしたのか」と、群集に問うと、彼らは、ただ、「十字架につけよ」と叫ぶばかりである。

勿論、司祭長たちが、画策したことであろうが。

ここで、私の見解を言う。
何度も言うが、当時は、メシアと名乗る者、多数。
イエスも、その一人であり、一派であった。

イエスが、十字架刑につき、死んだ後で、弟子たちが、変容したと言った。それは、共同幻想である。
当時のメシアを待ち望む人々の、共同幻想の中に、イエスの存在が、嵌ったのである。

福音書は、イエス死後、50年から100年を掛けて、伝言ゲームで書き継がれたものである。パウロの書簡より、後になる。実に、パウロが、初期キリスト教の教義の元になるという。

しかし、パウロは、イエス集団の迫害者だった。
そして、パウロの書簡には、一切、イエス在世当時のことに、触れられていないのである。それで、パウロは、共同幻想の、総まとめ役をしたと言える。
パウロの改心は、迫害していた時に、イエスが現れて、何故私を迫害するのかという言葉を聞くのである。
イエスの幻を見たのである。
その真偽については、省略する。
それよりも、イエス死後に、パウロが改心して、何故、あれほどの救世観を持っていたかである。イエスに、触れたこともないパウロが、多くの書簡を残し、さらに、教義の元になるものを、書いているということは、パウロは、すでに、救世観を持っていた。それを、学んでいたということである。そこに、イエスの存在があった。そして、その男は、罪もないのに、十字架刑になり、死んだ。
ここに、パウロが、自分の救世観を投影することが出来るイエスの存在が、突如として啓示のように起こった。イエスを慕う集団の共同幻想に、加担したのである。

イエス集団を迫害しているうちに、あることに気づいたのである。
迫害をするということは、相手を知るということである。落馬して、呆然として、しばしの時間を経た後で、ここに、自分の救世観を投影することが出来ると、悟ったのである。
落馬を、イエスの幻出現と、関連付けた。

ローマ支配にあり、部族間の対立があり、ユダヤ教の官僚的信仰形態に、人々は、ある種の絶望を感じていた。
しかし、メシア観はある。何となく、あやふやな時代に生きて、人の心は、不安である。その不安に、幻想が起こる。そこに、一人の男が、登場する。その男は、権威ある者の如くに、説教をする。
司祭や、律法学士たちに対する不満と、貧しい人のストレスである。金持ちは、神に選ばれた者であるという。いつまでも、日の目を見ない生活である。
それが、爆発したのは、イエスという男が現れてからである。
汝の敵を愛せよ。神は愛である。
部族間の対立のストレスや、異教徒に対するストレスは、最高潮に達していた。
村が違えば、口もきかないのである。異邦人として、対処するのである。
そこへ、神は愛であるから、あなたたちも互いに愛し合えという、説教である。
そして、ユダヤ教の指導者たちへの、批判と、非難は、極まった。イエスは、偽善者たちと呼ぶのである。

イエスは、その死後、変容し、キリストとして、認知される。すべて、共同幻想である。

ピラトは、群集の目の前で、手を洗う。それは、このことに、私は、関与しないという印であった。
そして、群集の望むままにさせた。

ローマ法でも、十字架刑は、極刑である。
死期を早めるために、石打の刑を与える。
いよいよ、イエスの受難物語がはじまる。
なんとでも、後で、意味をつけられる、十字架刑である。
イエスの勝利である。
私は、そう思う。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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