2007年11月15日

キリスト41

実は、この41は、二度書くことになった。
というのは、書いたものが消えてしまったのだ。
機械の操作ミスはしていない。
保存したものが、出ないのである。これを、魔という。
しかし、今、再び書く。

人々はイエスを、大司祭のところにひいていった。司祭長、長老、律法学士たちもみなそこに集った。はなれてついてきていたペトロも大司祭の中庭にはいり、下男たちといっしょにすわっていた。

司祭たちは、イエスを死刑にするために、計っていたのである。しかし、中々、統一した意見が出ない。
子供騙しのような場面である。

最後に司祭が問う。
「あなたは、キリストか。祝されたものの子か」とたずねると、イエスは「そのとおりである。あなたたちは、人の子が、力あるものの右にすわり、天の雲にのって来るのを見るであろう」とおおせられた。そのとき、大司祭は、自分の服をひきさき「どうしてこれ以上の証人がいるだろうか。あなたたちも冒涜のことばを聞いたろう。どう思うか」といった。かれら一同は、死刑に値すると決定した。

アホは、10人いても、アホである。
司祭たちの、アホぶりは、たまらないほど、アホである。
イエスは、それに「天の雲にのって来るのを見るであろう」と言う。

天の雲にのってというのは、世の終わりの譬えのときも、出てくる。

天の雲、とは、実に霊系正しい心霊が、乗るものである。
旧約には、一度も出てこない。
ここで、ああっと、思い出す人もいるだろう。
日本の神話である。
12000年程度前に、大陸から、日本列島が切り離される前後、私は、その後だと思うが、天の雲に乗って、ニニギの命が、天孫降臨するのである。
ちなみに、旧約の神は、4500年ほど前である。

天の八重雲を伊豆の千別きに千別きて天降りよさしまつりき
その時、磐根樹立草の片葉をも語止めて、つまり、自然界すべてのものが、語ることを止めて、天孫降臨を見守ったのである。

私は、この妄想の方が好きだ。

いわねきねたち くさのかきはも ことやめて
何と言う良い音霊の響きであることか。

これが、カンジーザ゛イボーサツ ギョウジンハンニャハーラミータとか
ニジセソン ジュウサンマイとか
ジガトクブツライ ショコショコッシューとか
やられては、たまらない。
仏典により、大和言葉が、破壊された。

それならば、ナムカラタンノートラーヤヤというように、梵語そのままの読みにした方がいい。
これについては、また、いつか書く。

さて、

自然淘汰は、親や部族の長老の言うことは何であれ信じるという傾向を持つ脳をつくりあげる。そのような、「疑いをもたず服従する」という行動には、生存上の価値がある。ガが月によって進路決定するのと似たようなものだ。しかし、「疑いをもたず服従する」という態度は、裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。ダーウィン主義的な生き残りに関するいくつかのすばらしい理由があるがゆえに、子供の脳は親と、親が信じよと教える年長者を信じる必要がある。そこから自動的に導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの住むリンポポ川に足を踏み入れるな」は正しい忠告だが、「満月の夜には子羊を生贄にしなければならない。そうしなければ雨が降らないだろう」はせいぜいよくて、時間とヒツジの無駄遣いにしかならないという、この二つの違いがわからない者が出てくるのだ。
「神は妄想である」より。リチャード・ドーキンス。
心のウイルスとは、宗教のことである。

また、彼は言う。
宗教指導者は子供の脳の脆弱さと、早い時期に脳を教化することの重要性を十分に理解している。と。

だが、と、私は言う。
日本人の脳は、幾つになっても、子供のようであり、その脆弱さゆえに、教化されると、途端に、洗脳されるという。
それは、新興宗教を見れば、よく解る。
何故あのような、馬鹿馬鹿しい教義に、騙されるのかと言っても、知る術を知らない。そして、あまりに、無知なのである。
学問にあらずの勉強をしていると、簡単に洗脳される。

私は、多く、若い人の入信の様を見たが、実に、無知であった。
いとも簡単に騙されるのである。
それらの相談を受けた時、私は、その信仰を否定することはなかった。
入信の相談も受けたが、私の答えは、あなたが必要とするものである限り、あなたの自由であると、アドバイスした。
そして、面白いことに、老若問わず、一つの神を捨てると、別の神を欲するということである。

拝むものを欲するのは、人類の、抜き難い定めである。

宗教のもつ多数の側面のうちの一つとして、一人の超自然的な人格、すなわち神に集中する強い愛、プラスその人格の偶像への尊敬の念というものがあげられる。人間の生活はおおむね、私たちの利己的な遺伝子と、心理学的な教化の過程によって衝き動かされている。正の教化の多くは宗教に由来する。すなちわ、危険な世界にありながら自分は愛され、保護されているという温かく心地よい感情、死の恐怖の消失、困ったときに祈りに応えて、山からやってくる助け(詩篇)といったものである。同じように、自分以外の現実の人間(普通は異性)を対象とする、いわゆる恋愛も、他者への同じような強い集中とそれに関連した正の強化を見せる。こうした感情は、相手のイコン、たとえば手紙、写真、そしてヴィクトリア朝には髪の房さえも引き金となりえた。恋に落ちた状態は、火のように熱いため息といった、多くの生理学的な随伴現象をもっている。
ドーキンス。

イエスを裁いたのは、誰か。それは、キリスト教徒と同質な性格を持つ者たちである。
権威と奢り高ぶりである。
自分たちは、神に選ばれた民であるという、選民意識。

イエスは言う。
主よ、主よというものが、天の国に入るのではない。父のみ旨を果たすものが入る、と。

イエスはキリストだと、宣言しても無駄である。
イエスは、父のみ旨、つまり、敵を愛することを、掟にしたのであるから、それを実行しない者が、天の国に入るはずがない。それを、キリスト教徒は知らない。

残念ですが、キリスト教徒は、イエスの言う天の国には、入れません。
それでは、どこへ行くのか。
それは、キリスト教霊界という、三次元と、四次元の隙間である。
そこに、イエスは、いない。

カトリックでは、煉獄で苦しむ霊魂のためにと、祈るが、それより、その煉獄に入るであろう、自分のために、祈る方が、得策である。

キリシタン弾圧で、殺された多くの騙されたキリシタンの霊が、ハライソを求めてさ迷う姿は、哀れすぎるのである。
世界有数の拷問であった、キリシタン迫害は、目に余るものがある。
私は、それを調べて、絶句した。
これほどまでに、残忍な拷問を考えることができるという、その人間の残忍さを、である。
その拷問を考え出した者を、私は、呪ったものである。

キリシタン弾圧は、両者を共に、地獄に叩き落した。
その種を撒いたのは、イエズス会という、プロテスタントに巻き返しを狙った、戦闘的なカトリック信者の男子の集いである。
イグナチオ・ロ・ヨラ、そして、日本にキリシタンを伝えた、フランシスコ・ザビエルである。
今では、彼らには、聖がつく。聖人になっている。

最強な、同性愛集団といえば、殺されかねないが、言う。
ローマの直轄地といえば、いいのか。ローマ法王の支配する土地を広げるべくの布教である。
前、ヨハネパウロ二世も、自国のポーランドの反共運動に大枚の資金を投じて、今は、その九割が、カトリックに立ち戻っているというから、仰天する。
大陸の人間は、野蛮であると知っているが、実に、やることが、野蛮である。
宗教戦争を起こす程に、狂っているのである。

ちなみに、日本の場合は、宗派の争いはあるが、程度が違う。
歴史では、信長、秀吉、家康が、門徒との、戦をしているが、宗教が、兵を持つという思想に、反対したものである。
宗教の政治的位置付けをするために、戦った。
宗教が、政治に関与してはならないという、思想である。
それは、つまり、ローマ法王のような存在は、戦の元になるというものである。
彼らは、そこで、天皇を掲げた。天皇の平和的存在意義を見抜いていたのである。

何故、近代を拓いた信長が、天皇を破壊しなかったのかと考える。もっとも、亡ぼしやすい相手である。何も持たないのである。兵力もない。皇居は、丸裸である。
しかし、信長は、天皇を打たなかった。不遜な態度で臨んだが、天皇を叩けば、今、敵ではない者もを、敵にしてしまうことを知っていた。そして、未来永劫、この国の人々から、裁かれることを知っていた。
つまり、天皇という存在が、支配者の存在ではなく、国の心に、関する存在であると知っていたのである。
今に至るまで、天皇は、民主的である。
天皇は、国民の総意に基づき、認証するだけである。
天皇制を欧米の専制君主制に似たものであると、考えるのは、誤りである。欧米の思想では、解釈できないのである。
多くの人は、それをする。

国家の共同幻想に持つ、精神的支柱というものは、実に、必要不可欠である。
だから、欧米では、そこに宗教を入れる。
政治的手法では、支配し得ないものを、宗教が持つ。
アラブのイスラム指導者を見れば、よく解る。

一時期、日本には、宗教が無い。神不在だなどと、まことしやかに言われたが、皆々、欧米の思想を持っての、解釈である。
日本には、彼らの言う宗教はいらない。また、神もいらない。
日本には、天皇に象徴される、御祖、御親、みおや、の考え方がある。
それが、精神の支柱としてある。
そして、最大の特徴は、宗教指導者と違い、天皇は、国民の総意によるというものである。
国民の総意が、天皇退位を望めば、そのようになるのである。
あちらは、殺しあう。
見て解る通り。

さて、イエスを亡き者にしようとする、クライマックスが、この程度の、子供騙しであるから、人生は、この程度と、考えておいた方がいい。
キリスト教徒は、である。

私は、宗教も言語と同じように、十分に恣意的な発端から十分なランダム性をともなって進化し、いま私たちの目の前にある、あきれるほどのーーーそしてときには危険なーーー豊かな多様性がもたらされたのだと推測している。同時に、ある種の自然淘汰が、人間心理の根本にある均一性と結びついて、多様な宗教がいつくかの重要な特徴を共有するようにとりはかったということはありうる。たとえば多くの宗教が、私たちの肉体が死んでも人格は生きる延びるという、客観的には信じ難いが主観的には魅力のある教義を教えている。不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、ひろまっていく。そしてこの「願望本位の思考法」というものが無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向をもつからである。「ヘンリー四世」の第二部で、ヘンリーが息子に向かって、「そなたの願いがやがては信念になるのだ、ハリー」と言ったように。
ドーキンス。

知性と理性は、宗教の迷いとなるのである。
欧米の思想では。

幸い、日本には、そのような宗教概念がない。観念も無い。
誰だ。
小さな親切、余計なお世話をするものは。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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