2007年11月13日

キリスト38

夕暮れになったので、イエスは十二人をつれていかれた。みな席について、食事をしていたとき、「まことに私はいう。私と一緒に食事するあなたたちのなかに、一人、私をわたす人がいる」とおおせられた。彼らが心配して、それぞれ「私ですか」とたずねた。イエスは「十二人の一人で、私と一緒に鉢に手をかけるのがその人だ。人の子は、自分について書かれてあるとおりにいくが、しかし、人の子をわたすその人はのろわれたものだ。この人にとっては、むしろ生まれないほうが、よかったものを」とおおせられた。

この箇所は、完全に創作である。
たとえ、神の子と言えど、それは、決して口にしてはいけない言葉がある。

むしろ生まれないほうが、よかったものを
とは、全くの、出鱈目である。

裏理切り者のユダの存在がなければ、新約聖書の、大切な役者がいなくなるのである。ユダは、イエスの最大の功労者である。
実は、このユダの書物も、残っている。
ユダの福音書と呼ばれる。

ユダは、イエス集団の経理係りのような世話をしていた。
いくらイエスでも、毎日奇跡を起こして、食べ物を得ているわけではない。
食事の世話から、寝泊りする場所の確保などを手配していた。

生まれを否定する者は、悪魔以外にない。
つまり、存在の否定は、無い。あってはならない。
まして、神の子であるならば、それを言えば、神の存在さえも否定することになる。

ヒットラーも、ポル・ポトも、毛沢東も、その存在を否定できない。彼ら一人で、殺した人の数は、星の数になるとしても。

福音書のユダの裏切りは、下手な芝居より悪い。

ユダは、周到に計算して、自分の役回りを演じた。
他の弟子たちは、アホだが、ユダは違った。
アホは、何人いても、アホである。アホに、11人掛けてもアホである。
しかし、ユダは、現実をしかと見つめていた。そして、イエスのメシアであることを、遂行させた。
イエスがメシアなら、ユダもメシアである。

最後にユダは、木に首を吊って死ぬことになっているが、違う。
イエスとの対比である。同じく、木で死んだとした。
ユダは、生き続けて、最後まで、その真偽を見つめていた。

新約聖書の中で、イエスの次に存在感を持つ者、それは、ユダである。

イエスの弟子のほとんどは、後に殉教する。
イエスの胸で甘えていた一番年下のヨハネだけが、長生きである。

宗教的天才は、身の回りに男しか、集わせない。
仏陀も、女を遠ざけた。どうしても、弟子にという女が現れた時も、仏陀は、許可しなかった。修行の妨げになるからである。
女には別の生き方があると知っていた。
しかし、仏陀も、弟子たちに懇願されて、女も弟子に加えることになる。

孔子も、弟子は、皆男である。
思想集団に女は入れない。
入れると、乱れる。
女を集団に入れたら、確実に分解してしまう。
つまり、女は、思想集団に向かないのである。

イエスにも、大勢の弟子の集団があったが、女を近づけなかった。

思想集団に内助の功は、いならない。それが、命取りになってしまうのである。
女は、過ぎるから、墓穴を掘る。
女は、人や子供を救う時に、我を捨てて行動する。しかし、そうすると、冷静な判断ができない。助けようとして、自分も死ぬのがオチである。

男の思想集団に理想的なものは、同性愛感覚である。

男同士が愛し合っても、冷静でいられる。
それでも、アレキサンダー大王は、男の愛人に裏切られたのである。
実に、ここのところは、微妙である。
女性性の強い男と、愛し合う時、男も注意を要する。
男として、男を愛するという強い意識のみが、同性愛を確固たるものにする。

ユダは、イエスを精神的に愛した。それは、徹底していた。この人のためになら、鬼に悪魔にもなろうと、腹を決めた。それほど、賢かった。

最も愛されたヨハネは、ユダの愛と違う。
多分に情緒的なものである。が、逃げ出した弟子たちと違う。最後の最後まで、愛してくれた師匠を見つめ続ける。それも、また、一つの愛である。
イエスの母マリアと、イエスの最後を見つめ続ける。

イエスの唇の温かさを知るヨハネの心は、最後を遂行した師匠を、哀しみつつ、誇りに思ったであろう。
そして、確信する。
神の子であったと。
ヨハネだけは、その宣教の仕方が、他の弟子たちと、違う。

イエスの肌の温かさに眠ったヨハネにしか解らない人間イエスの、真実である。

女の体は、円やかで柔らかい。しかし、男の体は、硬く冷たい。
少年が、男の体に抱かれて眠ることを覚えた時、それが実に安定した安らぎを得ることを知る。少年は、生涯、男の体に安らぐのである。

そして、思想集団には、それが必要だった。

女人禁制は、意味がある。

親に愛されて育つ子供は、人を愛することができる。
同じように、男に愛された男は、人を愛することができる。

イエスは、できれば、独身で生きる方がよいという。
それは、多くの人のために生きられるからである。
一人の女を愛することもよし。しかし、多くの人を愛する男は、男に愛された方が易い。
これ以上、説明しない。

女のように男に愛されることを望む男の話をしているのではない。
男として、男に愛される男の話をしている。
理想に生きる男は、皆、男に愛されて、生きる。
古代、男衆、女衆に分かれて作業をしていた意味が解る。
男は、男によって、男になる。
女は、女によって、女になる。
そして、その男と女という、性差のある、違う者同士が家庭を作る時、その経験が生きるということを、古代から知っていた。

ある部族では、男の成人式に、成人男性の精液を飲む。
また、年上の男に愛されて、一人前になり、部族の中に戻り、女と結ばれる。

イギリスの騎士道も、年上の男に愛され、成長して、また、今度は、年下の男に、それを伝える。それを同性愛趣味とする、また判断することの愚かさといったらない。

ユダと、ヨハネの生き方に、男の生き方を観る。

ユダの裏切りを、小説仕立てにして、福音書は、文学として、最低線をいった。

生まれるものをして、生まれぬ方が良かったという言葉は、自然界の激怒を買う。
神の怒りより、自然界の怒りの方が恐ろしい。

もう一つ言う。
誰がイエスかを、ユダが教えるために、ユダが先導してイエスを捕らえたというが、そんなことがある訳が無い。
イエスは、当時すでに有名である。
誰がイエスかを見極めるために、ユダがそんなことをする必要は無い。
イエスを知る律法学者が一人付き添えば、簡単なことである。
それによっても、福音書の、浅はかな、カラクリに愕然とする。
芥川賞も、取れない。
矛盾だらけだからだ。




posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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