2007年11月11日

キリスト 最後

キリストの絶唱と題して、勝手気ままなことを書いた。
しかし、終わりにする。

そこで、最後に当たって言う。
私の友人には、キリスト教徒、特にカトリック信者が多い。シスターもいる。修道院長をしている友人もいる。
その彼らは、私のエッセイを呼んでいる可能性は、大である。しかし、私たちの友情は、これによって、損なわれることはない。

大半は、一つの宗教団体を批判すると、その信者は、私に近づくことをしない。
その程度の信仰なのである。

何度も言うが、私は、信徒に対して、批判する者ではない。信仰は、極めて個人的な情緒であり、それを何人も、侵してはならないのである。

私は、小学四年生から、聖書に親しみ、中学生の頃は、聖書を諳んじていた。今は、すべて忘れている。
実に、多くを聖書から学んだ。その訳の、最悪さが、私の文章の元になっているから、私の文章作法も、最悪である。

すべての学問を身に着けることは、出来ないが、最低、人間としてのお勉強を、私は、宗教を学ぶことで、為してきた。
それは、実に有意義だった。
宗教とは、学ぶに足る妄想である。

さて、日本の宗教という観念は、鎌倉仏教による。
法然、親鸞、道元、日蓮の、書いたものを読めば、日本語の、新しい日本語の格調の高さが知れる。
彼らの思想は、欧米の思想を凌駕する。
それは、一つ日本語の能力にある。
その一行を解釈するに、欧米の言葉では、膨大なものになる。

彼らの日本語の、その大元は、お歌である。万葉集に代表される歌の言葉である。

31シラブルによる、つまり、音による、言葉の組み合わせ。
音の組み合わせは、日本語にしかない。
漢字などは、独立語であるから、一文字に、多くの意味がある。が、今、漢字の文化は、日本によって、花開いている。

また日本語には、一音に意味がある。

さて、この2000年、聖書は、多くの人に、誇大妄想を与え続けてきた。
私は、今、その流れに一石を投じる。もはや、聖書の世界では、世界は成り立たないのである。
進化したのである。

とは言え、日本人の知能指数が、低下していることは、否めない。
それは、テレビ文化による。
テレビは、思考力を低下させる、最もたるものである。
日本人は、テレビに占領されて、その心も占領されて、後は、衰退の一途を辿るのみ。

いやいや、もう無駄口をやめて、まとめる。

あらゆるキリスト教系の宗教は、百害あって一理無しである。
そこまで、極端に言うことはないだろうが、言う。
神学は、ギリシャ哲学から抜け出てなく、そして、ギリシャ哲学より、レベルが低いということである。
西洋の思想は、神との戦いであるというが、無いものと戦っても、詮無いこと。
姿の無いものに戦いを挑んでも、詮無いこと。
自己の観念との戦いに疲れ果てた姿が、西洋思想の、それである。

あの、ニーチェでさえ、神は死んだと、神と言う観念から、抜けられなかった。

宗教的天才は、新しい観念を生み出すのである。
神や仏に対決する、新しい観念を生み出すのである。

聖書が翻訳されてから、神という言葉の観念が定着した。
しかし、日本では、神明と言った。
仏法に惑わず、神明を尊びである。
日本の神は、上であり、守であり、集団をまとめるものを、カミと呼んだ。
日本のカミは、そのようものである。神明のみである。
シンメイと読めば、漢語である。かみのあかり、と読めば、大和言葉である。
神という実体は無いが、その明かりは、ある。神の如くのもの、である。

つまり、明かりを求めて生きるものであるということである。それは、自然界と同じである。自然以外のもの、超自然と言われるものの存在も、無くてよいのである。自然が、人間の上や、守を超えたものであった。
それの総称が太陽である。

太陽は、光り輝く。
それで善しとした。

浪花のことは、夢のまた夢なのである。
後は、野となれ山となれ。
ここに、神学の入り込む余地はない。

天地創造の神とは、人間の願いである。
唯一の神とは、人間の願いである。
その願望が、信念となり、そして、目の前に妄想を広げる。

しかし、再度言う。
信仰とは、個人的な極めて個人的な情緒である。
私は、それを否定しない。

おしまい。

追伸。
私はカトリック教徒として、多くの司祭、プロテスタントの牧師に会っている。
中には、実に素晴らしい方がいた。
それは、人間としての魅力としての、素晴らしさである。
キリスト教徒としては、皆々、最低最悪であった。
つまり、彼らは、イエスキリストを対立したものとして、捕らえ、そのイエスに対する信仰を説くのである。
嘘である。

何度も言うが、イエスを信じるということは、イエスになるとというこである。
つまり、言葉の世界を超えて行動するということである。

イエスにならない者の言葉を、いくら聞いても、詮無いことである。

それでは、私は、どうなのかといえば、唯一、私の知る限り、イエスになろうとした者である。しかし、それは大きくの誤解や、蔑みを生む。
しまいに、異端とされる。
要するに、キリスト教である。
つまり、教義の上のキリスト教である。

今、イエスキリストが存在したならば、キリスト教徒に、殺されること、必至である。

キリスト教徒とは、そういうものである。

お解りか、アホな、キリスト教徒。
イエスは、言う。
主よ主よというものが、天の国に入るのではない。
父のみ旨を行う者が、天の国に入るのである。

何度、イエスが言うか。

父のみ旨とは、何か。
敵を愛することである。
キリスト教発生から、敵を愛したキリスト教徒は、いたか。

全世界に、キリスト教の妄想を広め、主イエスが言うように、剣を世界に、撒き散らしたのである。
お解りか、アホなキリスト教徒よ。

ローマ法王は、億単位の人を、主の名において殺した。
それでも、主イエスというのか。
さあ、私の前に出よ。
そして、申し開きをせよ。
私が取り次げば、主イエスは、聞かれる。

キリスト教の神は、妄想である。

ナザレのイエスは実存した。
諸国を流浪し、心根の優しい、そして、強い性格であった。
今と同じように、当時の宗教家の偽善を許せず、自分一人が犠牲になれば、少しは、何とかなると考えた。
そして、神の子となるべく、決心した。
その第一声は
悔い改めよ
神の国は
近づいた。
である。

これを、理解できる者は、キリスト教徒であることを止める。

キリスト教というものには、主イエスが不在だからである。

さあ、親兄弟を捨てて、父のみ旨を果たすべきである。

すべての財産を捨てて、私に従え。
主イエスは、今も、そう言う。

しかし、誰か、それを為す人がいるか。
ああ、インドのマザーテレサか。
違う。
マザーテレサは、この世の報いを受けたのである。
何と無ければ、聖人として崇められる。

主イエスは、盗人のように、磔られたのである。

主イエスの愛に泣く人よ。
すぐ傍にいる、敵を愛してみよ。
唾棄すべき、敵を愛してみよ。

戦後、アメリカ兵に体を売って、家族兄弟姉妹を養っていた者、女に、キリスト教徒は、適わない。その足元にも、及ばない。

実に、この世の最低最悪の存在、キリスト教徒である。

さあ、この私の前に出よ。
その体の奥に、その後ろにあるものを、透かして見よう。

堂々として、私の前に、キリスト教徒であると言うがよい。

私は、イエスになれず、何と、誇大妄想ばりの、霊的能力を得たのである。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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