2007年11月08日

キリスト

マルコ第13章は、世の終わりについて言う。

宗教は、人を脅すものであるから、当然、終末思想、世の終わり等々の、お話を作る。
1999年に向かって、多くの新興宗教が、世の終わりを喧伝した。
そして、人の不安を煽り、信徒を増やすという。

イエスキリストの、世の終わりというものも、その一つに当たる。
しかし、実に、世の終わりは、毎日繰り返されている。
人の死である。

本日か、明日か、明後日か、百年後か、千年後か、世の終わりは、いつもある。
人は死ぬことによって、世を終わる。

今、人類は、核兵器によって、即座に、世の終わりを演じることも出来る。

イエスは、世の終わりの話の後に、御伽噺のようなことを言う。

「さて、その日には、この苦難ののち、日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力はゆれうごき、そして人々は、人の子が、大勢力と栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。そのとき、かれは天使たちをおくり、地の果てから天の果てまで、地の四方から選ばれた人々を集める。」

旧約聖書の神の奇跡を信じている者たちに、ここまで譬えて言わなければ、迫力に欠けるるのだろう。
しかし、旧約の神も、雲には、乗らなかった。

思い出して欲しい。日本の古事記を。
雲に乗って、天孫降臨したのは、我がタカアマハラ霊界からの、ニニギの命である。

聖書解釈では、世の終わりについて、旧約のイザヤ書における、バビロンとエドムの滅亡の光景を指し、エゼキエル書でのファラオの滅亡を言うとある。
一部の学者は、エルサレムの滅亡という者もいる。
キリスト教新興宗教は、この、イエスの世の終わりの言葉を、この世の終わり、つまり、世界の終わりと、解釈するのである。

選ばれた人とは、キリスト教徒のことを言うと、手前勝手なことも言う。

キリスト教徒のような、偽善者たちが、選ばれるということは、一切無い。
自分たちが、選ばれるという思い込みは、本当に、救いようがない。

人は死によって、この世の終わりを体験する。

「いちじくの木からこのたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉を出せば、夏が近いことがわかる。それとおなじことで、そういうことが起こったら、事はもうせまってきた。門口に近づいたと知らなければならない。まことに私は言う、それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。天地はすぎさるが、しかし私のことばはすぎさらない。」

「だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰ってくるか、夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、わからないのである。かれが不意に帰ってきたとき、あなたたちはが眠っているのを見つけられることがないように。わたしはあなたたちに言っていることをすべての人に言う。目をさましていなさい。」

伝言ゲームで書かれた福音書であるから、イエスの言葉、説教は、実に、注意深く読まなければならない。書いた者の、願望や、思い込みが激しい場合は、支離滅裂になる。

それらが実現するまで、今の代はすぎさらない。と言い、天地はすぎさるが、私の言葉はすぎさらない。
今の代は、すぎさらない。天地はすぎさる。
何、言ってんのー
今の代が過ぎ去らないで、天地が過ぎ去って、そして、私の言葉は過ぎ去らない。

こういう、とんでもない言葉遊びを、教会は、あのように、このようにと、屁理屈をつける。
自分たちの、都合の良いように、解釈する。
そして、自分たちは、救われると、思い込む。イエスが嫌った、律法学士と同じであることに、気づかない。

それでは、私は言う。
人は確実に死ぬ。その時、世が終わる。
それが、いつになるのかは、誰も知らない。だから、目覚めていよ。
限りある人生である。
死ぬことが救いなのである。そして、それが世の終わりである。
自然死も、事故死も、戦争死も、天災死も、何もかも、死ねば、世の終わりである。
その時が、いつきてもいいように、目覚めていよ。
そういうことである。

旧約の言葉を意識するゆえに、イエスの言葉が複雑怪奇になるのである。

旧約の神ではない、大和の神は、すでに、イエス在世当時より、一万年前に、雲に乗って、天孫降臨している。
旧約の神は、イエス在世当時から、4千年前である。

何を、たわけたことを言う。

ひとえに、神学という、妄想の酷さである。
その解釈大半が、あの、あのである。中世という、教会支配の暗黒の時期になっているのである。
異端審判の、最低最悪の様は、無知としか、言いようが無い。

頭の悪い者が、いくら考え続けても、良いアイディアは、浮かばない。堂々巡りをするのが、精々である。

ムハンマドの起こしたイスラムが、教会支配の地に、乗り込んで、飲み込んでゆくのに、慌てて、十字軍を興す程度の頭の出来である。
何故、イスラムが、支持を得るのかを、考えることが出来なかった、頭の程度が、あの当時のカトリック教会指導者の、知的レベルである。

複雑怪奇な神学より、イスラムの方が、実に、明確で、解りやすい教えだった。
司祭は、いらない。偶像を拝むな。一人一人が、アッラーと結ばれよ。あなたと神の関係である。

今、現在もイスラムは、増大している。
その勢いを、止めることが出来ない教会の、頭の悪さは、尋常ではない。

カトリックの指導者の、キンキンキラキラの姿と、イスラム指導者の、質素さを見れば、誰もが、イスラムを信奉する。
つまり、偽善者であること、明々白日であるからだ。それに気づかないという、頭の悪さである。
教会と、モスクを比べて見よ。
金に任せてキンキンキラキラの教会と、何も無いモスク。祈りのみが有効なモスクである。

ただし、私は、イスラムにはならない。
私は、自然が神殿で、ご神体が太陽の、古神道という、日本の伝統にある。
これには、イスラムも、適わない。
本当に、何も無いのである。
教祖も、経典も、教義も無い。こうせよ、ああせよ、も、無い。
楽しい時は、歌って踊って、哀しい時は、泣いて、怒る時は、心を鎮めて、喜びの時は、皆に、振舞って、ただ、それだけ。
それなのに、死んだら、最も高い次元のタカアマハラ霊界に行くという、妄想、モウソウである。

イスラムも、唖然某然。

金ピカの杖で、世界を祝福するというローマ法王である。
最も世俗的である。
その権威と権力のために、今まで、どれだけの人を殺戮したのか。
さあーーー言え。
神に選ばれたとは、これいかに。
悪魔であろう、その神は。

まだまだあるが、以下省略。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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