2007年10月21日

もののあわれについて137

読み人知らず 題知らず

ゆく水に 数書くよりも はかなきは 思はぬ人を 思ふなりけり

むばたまの 闇のうつつは さだかなる 夢にいくらも まさらざりけり

上記、最早、万葉とは、全く違う世界である。

流れてゆく水に数を書くことよりも、はかないこと、それは、私を思ってくれない人を、恋しく思うことだ。

闇の中での現実は、はっきりとした夢に比べて、どれとぼに勝っていることか。
うつつ、とは、現である。現実である。
夢かうつつか、といえば、夢か現実かである。
現実よりも、夢の方が、強く意識されるという心境は、ただ事ではない。
神経を病むのである。
気を病む。
すでに、現代病が、ここにある。

時代区分などというものは、千年も経ると、千年単位で、考察されたりする。
奈良時代も、現在と、同じだとも言えるのである。
古典は、古いという、考え方は、一つの自説である。

人の心、何も変わっていないではないか。

ただ、時間の流れが、違うのみ。

ゆく水に数を書くなどという、余裕ある時間を、現代人は、持てない、持たないのである。
水に文字を書くと言う、無駄、無益なことを、現代人が、しないだけである。

水自体に、何かを書くという行為は、はかないものである。それより、はかないのは、片恋、片思いの恋であるという。

流れに、ものを書き付けるなどという、行為を、今、誰がするか。
そんな、余裕は無い。

これは、時間の感覚、時間の、捉え方である。

もののあわれ、というものは、この時間の、捉え方に、大きく影響する。
もののあわれ、というものの、時間の認識である。

あわれ、という言葉を、儚きという言葉に、置き換えているようである。
しかし、あわれと、はかなき、は、違う。

あわれには、慈悲の思想が宿るが、はかなきには、絶体絶命の、定めがあり、それは、実に厳しい現実を言う。
儚きもの、それは、人間の存在であるというのだ。
何故か。
人間は、死ぬからである。
死によって、すべてが、ごわさんとなる。
死によって、すべてが、虚無に帰す。
これも、一つの観念である。

儚いのは、死というものから、逃れることが出来ない、人の定めなのである。何人も、そこから、逃れることが出来ない。だから、宗教が、現れる。そこからの救いである。しかし、宗教は、何一つ、救わない。思い込ませるだけである。
不安を鎮め、心の安定を得るというが、単なる、誤魔化しである。
人は、信じ込んで、騙されるのを、よしとする。

それでは、死からの救いを何によって得るのか。
何によっても、得ることはない。
それが、歌の道である。
それが、もののあわれ、である。

救われるという、観念を持たないのである。

古代、日本の伝統は、死を隠れるとして、自然の中に、融合すると、考えた。
実に、宇宙的である。

消滅するのではない。
自然と、宇宙と一体になるのである。それを、隠れると言った。

敬称して、お隠れ遊ばすである。
更に、崩、と書いて、神上がり、かむあがり、と読ませた。

古代日本の伝統である。

別の世界に、移行することを言う。
天国でも、仏の世界でも無い。
そんな観念の、あるばすの無い世界を言うのではない。
別の世界とは、自然の世界であり、それは、宇宙である。

少しの、注意深さがあれば、解ることである。

宗教の、神学、教学、教義等々を見れば、それが、すべて観念であるということが、解る。観念まみれである。
日本の伝統は、それを、善しとしない。

自然の世界にも、幾層もの、世界を観たのである。
自然の隠れた姿も観たのである。
人の死は、隠れてある自然に融合するのである。

故に、古代の人の、思いは、先祖崇敬である。
すべてが、ここに行き着く。
それを、先祖供養という言葉で、置き換えているが、全く違う。

先祖は、子孫に供養するものである。子孫が、先祖に供養するというのは、逆転しているのである。
根本から違う。
要するに、死者の存在ではなく、こちら側、つまり、生きている者の側から、供養するというのである。その心は、こちらの満足感である。
死者への追悼慰霊という思いは、決して、供養ではない。
崇敬である。

そして、何より、先祖代々のという、馬鹿馬鹿しい言葉は無い。
辿れば、皆々、先祖は、一つに行く着く。
故に、先祖を、祖先として、総称することになるのである。

それは、自然の中心である、太陽をして、総称した。
天照である。
あまてらす、ということになる。

天を、照らすもの、である。それは、地をも照らす。
生きとし、生けるもの、その照らす光を受けずにいないのである。
根本原因である、太陽を拝することが、先祖崇敬という伝統になった。
実に、真っ当である。

誰もが、納得する。

それ以上も、それ以下も無い。

死と格闘して、成り立つ思想、哲学は、すべて、この日本の伝統に行き着く。

そこに、辿りつくために、もののあわれ、という、道を見出したのである。
それが、日本人である。




posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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