2007年10月19日

もののあわれについて135

よみ人知らず
題知らず

降る雪は かつぞけぬらし あしひきの 山のたぎつ瀬 音まさるなり

降る雪は、降る先から解けている。山の瀬が激しく流れ、音も激しい。

山の瀬が激しく流れるのは、雪解けの水が流れているからだという。
かつぞぬらし、らし、とは、推定であるが、明確な根拠がある。雪解け水である。

音まさるなり
そのままを歌う。技巧も無い。

この川に もみぢ葉渡る 奥山の 雪げの水ぞ 今まさるらし

この川に、紅葉の葉が流れている。奥山の雪解け水が、今、増している。

これも、技巧無く、素直に歌う。
このように、写実的な歌で、歌心を学ぶとよい。
ありのままを、31文字にする。


わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで

君が代の原典である。
和漢朗詠集では、わが君は、が、君が代は、になる。
多くの人の口に上った歌である。自然発生的に、国歌となるべくの歌であった。

君とは、天皇を言わない。天皇は、大君である。
故に、この歌の君は、親しい人、愛する人、恋する人を言う。

あなたは、千代も八千代も、お元気でという意味になる。
それを、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで、と歌う。

ここで、この歌の矛盾を言う。
さざれ石が、巌となることは、無い。不可能である。
巌が、砕けて、さざれ石になることはある。
小石が、大きな石になることは無い。

それでは、何故、そのように歌うのか。
人間が千代も、八千代も、生き続けられることはない。不可能である。しかし、その不可能を願うほどに、相手を思うというのである。

限りある 人の世の道 定めある 時を過ごして 悲しきことを 天山

どんなに立派な人だからといって、千年も生きる人は、いるだろうか。
限りあるから、いいのである。
無常観ではない。
事実である。
その事実を無常観という、感覚、更に、観念に押し込めることは、いかがなことか。

限りある ことといえるは 幸いと 今を生きてや 悔いを残さず 天山

わが君は、最高の恋歌である。
しかし、恋歌と言う時、恋歌の変転を言わなければならない。

恋とは、乞うことである。相手の、魂、たま、を乞うのである。
万葉の恋歌は、魂乞いであった。

それが、古今、新古今と、色好みへと、変容する。
ただし、現在言われる、色好みではない。

色好みは、雅、みやび、という、新しい感覚を伴う。
みやび、とは何か。

もののあわれ、の、もう一つの側面である。もののあわれ、の、一部にある、心境である。
みやび、を分析することである。

平安期は、この雅が、主流になる。
みやび、とは、繊細優美であること。
それを、歌にして追求するようになる。


万葉の、丈夫振りから、みやびへ、至る。
手弱女振り、たおやめぶり、という、心境に変容する。

この、雅が、室町期になると、更に、変容して、侘び寂びという、境地を生む。
茶の湯で、侘び寂びが、完成する。

更に、侘びが、綺麗侘び、寂びが、綺麗寂びと、変容する。
その精神史というものを、もっと、掘り下げてみたいと思う。
いずれ、追々と書くことにする。

しかし、すべて、その底流に流れるもの、それが、もののあわれ、である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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