2007年10月18日

もののあわれについて134

読み人知らず

是貞親王の家の歌合せの歌

奥山に もみぢ踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき

奥山で、紅葉を踏み分けて、鳴く鹿の声を聞けば、秋は、実に悲しく思われる。

歌合せは、歌人たちが、左右に分かれて、同じ題で、歌を作り、優劣を競ったものである。
古今時代の歌合せは、まだ、初期の段階であり、平安後期から、鎌倉時代に、最も盛んになった。
次第に、形式も出来上がり、知的遊戯としては、最高級である。
勝ち負けの判定には、誰もが納得する理論が生まれる。歌論である。歌合せによって、評論の精神も、生まれることになる。
そして、次第に、歌を歌うことより、歌を評することに、重きが置かれるという自体になってゆく。
これは、歌の堕落である。

歌は、読むことに意義がある。
当然、理屈を超えて、感動させる歌も多々ある。

奥山の紅葉を分け入るのは、鹿である。
踏み分けて聞く、となれば、その人が、分け入ることになる。
紅葉の中を鳴く鹿を、想像して、歌うのである。

鹿の鳴き声に、秋の悲しさを歌う。
これを、単に、秋は悲しいと、悲しいという、意味のみに捉えては、単純すぎる。
悲しいは、哀しいとも、愛しい、とも、書く。

かなしい秋は、実は、愛しい秋でもある。
つまり、秋をこよなく、慈しむということである。

悲しみを、悲しみに限定すると、もののあわれ、の心が、見えにくくなる。
悲しみには、必ず、愛しい、という、慈しみの心が宿る。

そして、また、愛しいは、一種の執着でもある。
愛という文字は、仏教では、欲望を言う。
現在使用される、愛という言葉の認識とは、違う。

慈しみと置き換えた方が、正しい。

悲しみは、歳月を経ると、慈しみに変容する。
もののあわれ、である。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあわれを 今宵知りぬる
建礼門院右京太夫は、歌う。

月を眺めてばかりいたが、今夜の星の夜は、何と言うことだろう。あまりの星の光の美しさに、深い、あわれ、を覚えたのである。

悲しみを行き続けた人の、辿りついた、境地である。
悲しみを突き抜けて到達した、心の様が、あわれ、であった。慈しみの心であった。

人生は、悲しみに満ち溢れている。
少しの、問題意識を持てば、生きるということは、悲しみを生きるということである。
何一つ、プラスのイメージで、捉えられるものはない。
生老病死は、人間の定めである。定めは、変えられない。

どんなに、傲慢不遜に生きても、必ず老いて、病になり、死ぬ。

実に、一寸先は闇である。
先を知らないだけである。

幸、不幸の概念ではない。
人生は悲しみなのである。
それを生き抜く時に、あわれ、慈しみの心に目覚める。
もののあわれ、とは、それである。

更に言えば、人生にあるのは、絶望である。
希望は、願望であり、願望は、思い込みである。
思い込みを、輝ける希望と、勘違いして生きるのである。実に、おめでたい。そして、その、おめでたさが、救いである。

先を知らないから、かろうじて、生きられる。
突然、癌を宣告される人のように、人生には、そのようなことに、満ち溢れている。

美辞麗句を並べ立てても、真実は、悲しみなのである。

喜びは、一瞬にして、過ぎ去るが、悲しみは、過ぎ去らない。

秋は悲しき
それは、春も、夏も、冬も悲しいのである。

絶望に気づかない人は、もののあわれ、というものを、知ることなく、無為に人生を観ることになる。

辛うじて、世間は虚仮と看破して生きるしかない。
だから、人生を、旅と見立てて、古人たちは、突き放して観たのである。

生きるということが、あまりに、悲しいことだからである。

幸せになると言われて、壷を買う人を笑えない。
誰もが、それに似たことを、行っている。

はっきり言うが、何一つ、人生を救うものは無い。
毎日、絶望の只中にいるのである。

青春の一時期の、虚無感は、真実であった。それを、辛うじて、何事かで、誤魔化し、ごまかし、知らぬ振りをして生きる。あるいは、信じるという、徹底的思い込みで、生きるのである。

安心立命とは、嘘である。

題知らず

竜田川 もみぢ乱れて 流るめり 渡らば錦 中や絶えなむ

竜田川には、紅葉が乱れて流れている。川の中を渡れば、その紅葉の流れを切ってしまうだろう。

大上段に、人生論を語らない日本人は、ただ、歌を読むのである。

今、目の前にある現実に、対処すること。そこに、生きる極意がある。
紅葉の流れを、せき止めることなく、それを、眺めるという、余裕、優雅な心である。人生には、それ以外に、方法が無い。

人生は、流るめり、なのである。
流れているようだ。めり、は、断定ではない。断定を避けているのである。

実際に流れているにも関わらず、流れいると言わない。断定しない。
それが、曖昧さであり、たゆたう心という。
しかし、それを、日本人は、悪しきものとして、卑下した。

流るめり、として、世界を捉えるのは、日本人のみであり、それこそ、世界の平和に貢献する、ものの考え方である。
この世には、何一つ、断定するものは、無い。

インド思想は、空とか、無という言葉遊びを善しとするが、日本の感性は、断定しない、流るめり、なのである。
観念を作らないのである。

もののあわれ、についての、観念を作れば、それは、嘘になる。
ということは、定義を作るという、西洋哲学の基本は無い。ということは、日本には、思想など無いと、言ってもよい。
語ることは、嘘であると、看破しているのである。

しかし、それでは、先に進まないゆえに、便宜上、歌を読むのである。

思想が無いということで、卑下し、不安になることはない。
嘘の言葉遊びで、人生を台無しにするより、目の前にある人や物を、いかに大切にするかである。
それは、自然に思想を観るからである。
日本の思想は、この日本の自然の中に満ち溢れているのである。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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