2007年10月18日

もののあわれについて133

よみ人知らず
題知らず

木の間より もりくる月の 影見れば 心づくしの 秋は来にけり

木々の間から、月の光が。物思いのふける秋がやってきた。

もりくる
漏れてくる。
影は、その月の光のことである。

ここで、影というものが、物の影ではなく、月のもれる光を言う。
もりくる月の 光見れば、とは、ならない。
光を影と、感じた、彼らの心境を理解する時、その時代の感覚が解る。

いや、漏れる光を、影と、表現したというべきだ。

月そのものの、光を言う時は、光と言う。しかし、間接的な光を、影という。
影の存在と言えば、無いものではなく、あるものである。

影により、そのものの存在感を、よりいっそう、感じるということもある。
上記の歌、実に、素直な歌である。

心づくし、とは、あれこれと、思うことを言う。
心づくしの、持て成しといえば、心を込めた持て成しと、いうことになる。
づくし、は、尽くし、になる。

心づくしの 秋は来にける
このように、秋を迎える心境を想像して欲しい。
何と言う、優雅さか。また、自然に対する感受性は、見事なものである。

白雲に 羽うちかわし 飛ぶ雁の 数さへ見ゆる 秋の夜の月

白雲を背景に、羽をかわして飛んでゆく、雁の数も、はっきりと解る、秋の月夜である。

当時の夜の光といえば、月明かりと、星明りである。
いかに、月の光が、輝いていたか。
夜の闇に、月の光は、煌々と照る。

闇というものの、価値を知るには、闇の只中に身を置いてみることだ。
私は、本当の闇を知っている。
自然の中での、闇である。

何もかも 何もかもがも 抱きこんで 夜の闇には 音さえも無く 天山

闇は、沈黙である。
その沈黙が、闇の本体である。
闇は、饒舌を許さない。

子供の頃に、本当の闇を知ったこと、宝である。
小さな、ローソクの光でも、それは、大きな救いだった。
私の救いの、原始体験は、闇の中の、小さな光である。
光に向かってなら、人は、歩むことが出来る。もし、闇の只中を行くとしたら、それはそれは、恐怖である。

火というものを知った、古代人が、一躍、文化的行為を獲得する。
火は、故に、信仰の対象とも、なる。

この原始体験の、眠れる意識を、観念による、宗教的救いに、置き換えてしまうと、単なる、妄想になる。
宗教の本体は、妄想である。

おおよそ、4000年ほど、人類は、そうして、観念の救いに陥っている。
唯一、原始体験を下に、行為にのみ、重きを置く、古神道が、残るのみ。

膨大な妄想の思想体系がある、宗教は、神道を、思想体系が無いと、軽蔑する。
逆である。思想体系がなければ、やっていられないという、愚かさである。
つまり、語り尽くそうとする。それは、文学、哲学であり、宗教ではない。しかし、宗教も、そのようだとする。故に、神道は、彼らの宗教概念には、入らない。つまり、神道は、彼らからは、宗教ではない。
私も、神道を宗教と、言わない。日本の伝統である。

神道は、日本人の潜在意識なのである。

なにごとの おわしますかは しらねども かたじけなさに なみだこぼるる

実体を見るのではなく、観る、感じることであり、それは、更に実体がない。ただ、流れているのである。なにごとかが、流れているのである。それを、感じ取る。

すべてを、理屈で、解決しようとする、西洋思想が、いかに、偏狭になるかは、ご覧の通りである。
言論を戦わせると言っても、言葉遊びである。

それはしかし、インド思想も、そうである。
三蔵法師玄奘が、天竺の、最高学府ナーランダで、論戦のトップに立った。
言い負かし、である。
論破するという、愚かなことを持って、仏教の最高学府は、成り立っていた。
結果、今は、その仏教は、見る影も無い。
バラモンから、ヒンドゥーという、曖昧模糊なものに、取って代わられた。

仏陀の言葉が、重く響く。
人は、行為によって、成るものに成る。

理論武装という、馬鹿馬鹿しい言葉があり、アホ、バカが、それを言うから、また、おかしい。
いくら、理論を積み上げても、行為行動の前には、塵である。

日本人は、秋の夜の月で、終わる。
実に、気分がいい。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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