2007年10月17日

もののあわれについて132

よみ人知らず
題知らず

わが宿の 池のふぢ波 咲けにけり 山ほととぎす いつか来鳴かむ

わが家の、池の藤の花が咲いている。ほととぎすは、いつ来て、鳴くだろうか。

いつか、の、かは、現代文だと、最後にくる。疑問の助詞は、古文では、このように、文中にきて、文末を受ける、つまり、係り結びになる。
文法については書かないが、これから、この表現が多いので、書いておく。

ふぢ波は、藤の花のこと。
山ほととぎすは、夏に、山から里に来て鳴くと、考えて、山にいる間を、山ほととぎす、という。

わが宿とは、家全体を言う。庭も、そうだ。

さつき待つ 花たちばなの 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする

五月を待ち咲く、花たちばなの香りをかげば、昔の人の袖の香りがする。
昔の人とは、恋仲の関係であろうか。
花たちばなとは、花が咲くことを言うが、これは、杜若、かきつばたや、菖蒲の立ち姿を言う。

夏山に 鳴くほととぎす 心あらば もの思ふわれに 声な聞かせそ

夏山で鳴いている、ほとときすよ。心あらば、物思いに沈む私に、声を聴かせてくれ。

心あらばと、ほととぎすを擬人化する。

万葉の歌と、歴然として、違うことが解る。

万葉の歌、勇壮として、自然同化をするが、古今は、自然と対立して、こじんまりと、自己の世界を歌う。

この、古今の、もののあわれ、が、以後、主流になるのである。
自己観照という意味では、自己を深めることになるが、歌の世界から、見ると、狭いのである。

そして、ここから、風情という感覚が、現れてくる。

万葉は、自然すべてに、光が射したが、古今、新古今となると、ピンポイントになってくる。
花鳥風月という、ピンポイントである。
新古今になると、さらに観念的になり、それが、芸術としての、芸域にまで、達する。歌が、芸術として、認識される。
歌の昇格なのであるのか、微妙複雑化してゆくのである。

純粋素朴なものが、成長発展するのである。
ただし、それを良し悪しで、判断することはない。
時代である。

きのふこそ さ苗取りしか いつのまに 稲葉そよぎて 秋の風吹く

昨日、さ苗を取ったばかりなのに、もう、秋の風が吹いている。早いものだ。

例えば、この歌を。
秋の風 さ苗取りしか いつのまに 稲葉そよぎて きのうこそなむ
最初と、最後を取り替えてみると、実によく解る。

更に、
秋の風 さ苗取りしか きのふこそ 稲葉そよぎて いつのまにまに

歌の分析に、これは、邪道である。
しかし、理解するために、あえてしてみた。

昨日、早苗を取ったばかりなのに、もう、稲が秋風にそよいでいる。

文法をよくする者、このようなことを、考えることはない。これをすると、分析が台無しになる。そして、文法上では、云々という。
文法が出来て、歌があったのではない。
歌が出来て、文法という、分析がある。
つまり、言葉は、生き物であり、それが、自然に生まれ育ちするものである。
それに、文法という、切り口から、解釈するという、たった、一つの方法であるということ。

まず、語感を感じ取ることから、始まる。

上記の歌、研究者は、二句切れという。
文法上は、二句切れとなろうが、読む者の、心境では、別になることもある。
私が朗詠すると。

きのふこそ さ苗取りしかいつのまに 稲葉そよぎて 秋の風吹く
となる。
誤りだろうか。

初句と、三句と、四句で、切れる。
文法ではない。語感である。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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