2007年10月17日

もののあわれについて131

よみ人知らず
題知らず

春がすみ 立てるやいづこ み吉野の 吉野の山に 雪は降りつつ

春霞が立つところは、どこだろうか。この吉野の山では、まだ、雪が降り続いている。

春日野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこもれり 我もこもれり

色歌である。
野焼きを行う時期。
若い二人が、若草の中で、睦み合っている。つまは、女の妹と思う。我は、男である。
ただし、つまとは、愛しい人を呼ぶ。
二人で、こもれる、のである。
若草というが、実際は、枯れ草である。

春日野の とぶ火の野守 出でて見よ 今いくかありて 若菜摘みてむ

とぶ火の番人、出てきてください。若菜を、そろそろ摘む時期でしょう。あと、幾日くらいでしょう。
春の訪れの華やぎが、ある。

梓弓 おして春雨 けふ降りぬ あすさへ降らば 若菜摘みてむ
あづさゆみ おしてはるさめ きょうふりぬ あすさへふらば わかなつみてむ

春雨が降ると、若菜が成長する。もし、明日まで降れば、若菜が摘めるだろう。
梓弓とは、次の、おしてに、かかる。梓弓は、おして張る。つまり、あづさゆみ おしてはる と、遊んでいる。

春の色の いたりいたらぬ 里はあらじ 咲ける咲かざる 花の見ゆらむ

春は、どこにもやってくる。
来る里と、来ない里などない。
しかし、どうして、咲いている花と、咲いていない花が見えるのか。


よみ人知らずには、題知らずが多い。
題知らずとは、その歌を、どのような状況にある時、歌ったかをいう。
よみ人が、解らなければ、当然、それも解らない。

古今の中でも、よみ人知らずの歌は、多い。
古い歌ということになっている。
確かに、万葉の感覚に近い。
万葉後期の感覚に近い。

余計なことだが、句切れ、という、考え方がある。
和歌が、短歌に絞られてきてからである。

句切れとは、和歌を読むのに、どこで、区切るかということ。
それは、読む人に分けられる、つまり、読む人の感性になる。
古典の授業などで、句切れを強制させられる。

例えば、
春がすみ 立てるやいづこ み吉野の 吉野の山に 雪は降りつつ

これを、春がすみ立てるやいづこ み吉野の吉野の山に雪は降りつつ
とすると、二句切れである。
参考書などでは、二句切れという。

これが、
春がすみ立てるやいづこ み吉野の吉野の山に 雪は降りつつ
とすると、二句と、四句切れとなる。

五・七・五で切り、七・七と読めば、七五調という。
二句切れ、四句切れの歌を、五七調という。

それを人に教えられる必要はない。
大変重要だから、自分の感性で、なすことである。
勿論、最初は、それを教えられるということも、否定しないが、その時、その時で、読む側の心境もあり、変化する。それでいい。

私は、朗詠をするが、その日によって、句切れが違う。
思い入れが違う。同然である。心は、いつも、流れている。

ただし、基本的な句切れを、学ぶことは必要である。
尊敬する先生が、教える句切れは、実に、大切なものである。
それは、歌の息遣いになるからだ。

勿論、句切れなしの歌もある。

春日野は今日はな焼きそ 若草のつまもこもれり 我もこもれり
五・七、五・七、七と、句切る。つまり、五七調といわれる。

ただし、私は、時に、つまもこもれり我もこもれり、と、七・七と続けたくなる。
朗詠する時、
春日野は 今日はな焼きそ 若草のつまもこもれり我もこもれり
と、なることもある。

文法上、句切れというものを、断定する場合もある。
否定はしない。

分析を、よくして、生計を立てるのは、学者である。
一般人は、歌の語感を読むことである。
そのためには、声にして読むことである。

はるのいろの いたりいたらぬ さとはあらじ さけるさかざる はなのみゆらむ

いたりいたらぬ さけるさかざる
万葉には無かった、語感である。つまり、遊びの要素大。
歌遊びである。

しかし、そうして、慰められることがある。
歌の道が、奥床しいものになってくる。

古今は、観念に陥ると言われる。それは、また、時代の趨勢である。
それもあり、と、感得する時、もののあわれ、の、変容が観える。

更に続けて読む。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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