2007年10月15日

もののあわれについて145

在原業平

五条の后の宮の西の対に住みける人に、本意にはあらでもの言ひわたりけるを、むつきの十日あまりになむ、ほかへ隠れにける。
あり所は聞きけれど、えものも言はで、またの年の春、梅の花盛りに、月のおもしろかりける夜、こぞ恋ひて、かの西の体に行きて、月のかたぶくまで、あばらなる板敷きに伏せりてよめる

五条の后の西の対に住んでいた人に、本意ではないが、つまり、最初からそのような気持ちではなかったが、付き合っている人がいた。ところが、その人は、正月十日過ぎに、他に隠れてしまった。
居場所は、聞いたが、探すことができないでいた。翌年の春、梅の盛りの、月の美しい夜、去年を恋い慕い、あの西の対に行き、月の沈むまで、戸障子の無い板の間に横になってよんだ。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして

月は昔のままの月ではないのか。春は昔の春のままではないのか。
我が身だけは、昔のままである。

結論から言えば、業平の歌は、全く万葉には無かった感覚である。
言いたいことを言わない表現である。
多くの言いたいことがあるゆえに、それを語ることなく、別な観点から、歌うのである。

複雑になったといえば、言える。

えものも言はで、などという、言葉が出来る。
消息もすることが出来ない。探すことが出来ないのである。

仮名序の業平の評は、その心あまりて、ことば足らず、と言われる。
感情過多で、表現不足であるということだ。

万葉では、その心あまりて、そのまま歌う、つまり、直に歌うのである。
業平の感情過多をを、風情と考えるかである。
それは、これからの歌を見つつ、考える。

業平の歌の最後に一首。

病して弱くなりにける時よめる。

ついにゆく 道とはかねて 聞きしかど きのふけふとは 思はざりしを

遂に行く道とは、死への道である。
それが、昨日、今日とは、思わなかった、と歌う。

思わざりしを、が、非常に強く、響く。
思わなかったという意味だが、を、は、詠嘆である。

一音に意味のある、日本語、大和言葉であると、何度も言うが、を、が、詠嘆を現すという事実である。

おオは、送る言葉であるが、をヲには、詠嘆がつくということである。
送る時の、余韻を、をが更に、強めるのである。

何々を、という時は、断定である。
を、という音にある、表情である。それは、様々になる。
音ひとつにある、思いを知る時、大和言葉の重さを、察する。
それは、日本人であれば、誰もが自然に身につけるものである。言葉に対する感性である。
こればかりは、如何ともしがたいのである。
民族性である。

日本語が美しいのは、母音の清音である。
濁音を嫌った。
それを、他の民族に知らしめることは、大変な労力がいる。

言葉が出来上がる、何千年の間、純粋培養された、日本語の魅力である。
静かに、ゆっくりと、母音の一音に意味のある、言葉を、培ってきたのである。

世界の言語の中でも、稀有な存在である。

ちなみに、わいうえを、について言う。
えは、ゑと書く。
わいうゑを、である。

五十音図最後の行である。
すべて、感嘆を意味する。

わア、とは、我である。
東北地方では、自分を、今でも、わア、という。
関西では、相手のことを、ワレとも言う。
わア、は、人間のことである。
つまり、あいうえお、の、い、と同じである。

あアは、上を、わアは、下を表す。つまり、上は、神を、下は、人間をである。

ちなみに、あアいイ、とは、あい、という言葉になり、それは、愛、藍、間、相とも、書く。
あ、は、開いている意味である。
い、は、受け入れる。
上の、あは、開き、下の、いは、受け入れる。

霊である神と、人との、交わりである。

さらに、恋になると、こオいイである。
送る、オと、人である、イである。
魂を、送るのであり、それは、生身の人間である。

もののあわれ、は、あくまでも、生身の人間の情であるということ。
そして、こオいイ、とは、心的状態を言う。

性というものに、託して、魂を、送る情である。
性が、魂と、共にあった、時代である。

性は、もっと、自由自在に解放されていた。
色好みについての、具体的な、感覚については、後述する。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第3弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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