2007年10月14日

もののあわれについて128

この歌 あめつちの ひらけ始まりけるときより いでにけり
しかあれども 世に伝はることは ひさかたのあめにしては 下照姫に始まり
あらがねのつちにしては スサノオのミトコよりぞ 起こりける

ちはやぶる神世には 歌の文字も定まらず すなほにして 事の心わきがたかりけらし
人の世となりて スサノオノミコトよりぞ 三十文字あまり一文字はよみける

かくてぞ 花をめで 鳥をうらやみ 霞をあはれび 露をかなしぶ心ことば多く 
さまざまになりにける
遠き所も 出で立つ足もとより始まりて 年月をわたり 高き山も ふもとの塵ひぢよりなりて 天雲たなびくまで 生ひのぼれるごとくに この歌も かくのごとくなるべし

和歌の起源を言う。

天地の開ける時から、歌が始まったと認識する。
それは、天上では、下照姫から、地上では、スサノオノミコトから始まったという。

神世には、歌の形は、定まっていない。
何の技巧もない。
人の世になって、三十一文字となった。

須佐之命の歌を読む。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣造る その八重垣に
出雲で、ヤマタノオロチを退治し、クシナダ姫と結婚した時に歌ったとされる。しかし、これは、後世の作り物である。

かくてぞ花をめで
ここからが、本題である。

花を愛でる。
鳥をうらやみ、とは、鳥に憧れる。

霞をあはれび
この、あはれび、に注目である。
あはれ、とは、何か。
趣のあるものとして、鑑賞するのである。
霞を、あわれと思うという、心境は、日本人にしか、解らないのである。
それは、日本語の語感による。
これは、大脳生理学、脳科学で実証されている。

母音を主とする、日本語の語感は、世界的にも、稀である。
母音を主にすると、自然界の音も、言葉のように聞こえるのである。
言葉の体感ということである。

日本人には、自然界の音すべてが、言葉に成るという、驚き。
その延長で、自然にあるもの、霞でさえ、心を捉えるものになる。
和歌が、自然を歌うのは、自然に心を写す、つまり、自然を体感し、体感する言葉と、共に、享受するということだ。

禅問答ではなが、霞が、私になるという、心境である。
その私が、あはれである。故に、霞が、あはれになる。
それは、対立ではなく、融合である。

霞に心があると、観る。
これは、他の民族、他の言語を使用する人には、理解出来ないものである。
しかし、理解せよと、言わない。それが、民族性である。

国際社会で、云々と言う話は、別にする。いずれ書く。

霞をあはれ、と思うことを、趣があって、云々というのは、単なる、解釈である。
かアすウみイ、という時の、語感の有り様を調べると、よく解る。
学者で、それを成した人がいる。
発音体感という、言葉の語感を科学したのである。
それが、霊学と、古神道研究の私と、同じ意見になる。

露をかなしぶ
これも、上記と同じである。
かなしむ、とは、愛しむ、と書く。
悲しい、哀しいと、愛しいと、書く。

心ことば、とは、和歌のことである。
愛しむ、和歌である。
露さえも、愛しく思うのである。

これを理解するに、語感の説明が必要である。
いずれ、じっくりとする。

遠い所へ行くのも、まず、最初の一歩から始まる。
そうして、少しつづ、歌の道が、天雲にたなびくまで、成長したという。
遠き所というのは、白楽天の、千里の道も、一歩からという座右銘から、取られている。

あはれ、という言葉の認識が、ここでは、自然の現象にも、心を動かすものだという。
これを、忘れず、続ける。

この後では、万葉集の成立を語り、六歌仙の解説をし、古今和歌集の撰進について言う。
次は、撰進を読む。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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