2007年10月13日

もののあわれについて127

古今集は、万葉集に入らない歌と、選者たちの歌を入れたという意味である。
さらに、実は、続万葉集と、最初は、表記したという。
しかし、後に、整理し、20巻とし、改めて、古今和歌集と名づけた。

そして、これは最初の、勅撰和歌集である。つまり、天皇の命を受けて、集められた歌集である。
漢詩集では、すでに、勅撰集は、三つあった。飛鳥、奈良時代に、すでに漢詩詩集があるということが、凄いことである。
漢字を、我が物として、咀嚼してしまったのである。
当時の知識人たちの、語学力には、舌を巻くのである。

選者たちは、万葉集も、勅撰集だと、勘違いしていたようである。
万葉集は、私選集である。
大伴家持によることは、言った。
彼らは、万葉集を意識し、巻20と真似た。
しかし、その数、1110首ほどで、万葉集の四分の一である。

万葉集との違いは、歌の整理の仕方である。
整然として、まとまっている。
歌の配列と、分類が、整然と整理されている。

以後、勅撰集は、古今集を手本に、作られることになる。

歌は、三期に分けられる。
第一期は、万葉集に近いものであり、読み人知らずの歌である。
第二期は、六人の歌人の、六歌仙時代である。
第三期は、選者たちの歌である。
作者不明の歌が、四百数十首で、次に、選者たちの歌が多い。

読みつつ、余計なことを書いてゆく。

最初は、有名な、序文である。
序は、二つある。
一つは、漢文の、真名序であり、もう一つは、仮名序である。
真名序が最初に書かれ、それを土台に仮名序が書かれる。
つまり、仮名序の方が正式なものである.
仮名序は、紀貫之である。

やまと歌は 人の心を種として よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人 ことわざしげきものなれば 心に思ふことを 見るもの 聞くものにつけて言ひいだせるなり。
花に鳴くうぐひす 水に住む蛙の声を聞けば 生きとし生けるもの いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして あめつちを動かし 目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ 男女の中をもやはらげ たけきもののふの心をも慰むるは歌なり。

短歌、旋頭歌、長歌とあるが、この古今集は、短歌全盛を思わせる。
圧倒的に、短歌が多い。

やまと歌とは、和歌という意味でよい。

人の心を種として
世阿弥の花伝書に「花は心、種は技なるべし」を思い出す。
心の種が、歌という花となるのである。

心の様を、見る物に託して歌う、表現するという。
つまり、万葉初期は、その見る物に、共感し、共存した。それが、次には、眺めて、対立させて、心を物に、写すようになる。

擬人化という方法がある。
物を人の心を持つように、感ずるのである。
想像力である。
想像力が、創造に至る時、想像が、変容するという。

これから私は、文法に関して、一切触れない。
古典教育の最大の、誤りは、文法解釈である。
語感を養う教育をせずに、文法が最初にくるゆえに、すべてが、台無しになる。
学者というものの、愚かさを知るべきである。
分析のみ、よくして、学問とは、笑わせる。
学問を、大和言葉で、読んでみよ。
ものならうをとう、と読む。

古典の文法解釈は、後の後の話である。
語感を養う手引きをすることが、まず最初である。

この序文で、当時の人が、歌というものを、どのように考えていたのかが、解る。

花に鳴くうぐひす、蛙の声も、歌と認識するのである。

歌を歌わないものは、自然界には、一つも無いのである。

つまり、音は歌であるという認識である。

それはまた、言葉の響き、そのものも、歌なのである。
だから、語感というものが、言葉の命であるというこが、解る。

日本語の語感とは、大和言葉である。
それは、母音に返るということである。

実は、日本語とは、母音を主体に音声認識をするという、世界でも、稀な言語である。
ただ今確認されているのは、ポリネシア語族のみが、日本語に似る。
欧米や、アジア各国は、子音を主体に音声認識をする。さらに、それらは、母音を、言葉の音として認識せずに、聞き流すのである。
それも、右能のノイズ処理領域で、聞き流すのである。

人類は、音声を、母音で聞く者と、子音で聞く者に、分けられる。
母音で聞く、民族は、圧倒的に少ないのである。

さらに、母音を徹底的に、語感として感じ取る民族は、日本民族のみである。

それは、更に、脳の有り様が、いかに、違うかということである。
何か良い悪いの話ではない。
違いなのである。相違を知ることから、哲学が始まる。

以後、おいおいと、それについては、書いてゆく。

歌を読むことが、力をも入れずして、天地を動かすという認識は、ただ事ではない。
つまり、言霊の思想である。
成れと言えば、成るのである。
成功哲学を笑うのは、日本語には、すでに、その力があるからだ。
今更、思考は、実現化するなとどは、笑わせる。
しかし、アホな日本人は、あたかも、新しい思想のように、受け取るから、更に、笑う。

灯台下暗しである。
灯台の光があっても、足元が暗いという意味であり、それは、灯台の光に気づかないということを言う。
それで、成功哲学という、懐中電灯を持って、先を見る行為をするという、愚かしさ。
哀れである。

男女の中も、和やかにさせる。
セックスが終われば、ハイそれまでよ、ではないということ。
あれ程、愛し合ったのに、何故・・・とは、笑わせる。たかがセックスである。摩擦の快感に、何があるというのだ。
チンコと、マンコを摺りあわせて、何があるというのだ。
子供が出来るのみ。
それ以上を求めるのは、妄想、幻想である。
以下省略。

鬼神をも、あはれと思はせる、という。
鬼と神である。鬼も神である。
日本人は、悪霊の存在を認めない。
あるのは、鬼と、神であり、それらは、鬼神として認識する。
つまり、悪霊も、神とする。
目に見えない存在を、尊称して、鬼神という、礼儀作法を持つ。

悪魔祓いなどという意識は無い。
悪魔を祓い、どこに祓うのか。それを、悪魔祓いの連中は言わない。
日本では、悪魔を諭すのである。
仏陀と同じである。
悪霊を諭し、善に働くようにする。
ここに、信仰の根本的姿勢がある。
いや、宗教というものの無い、日本独自の考え方である。
つまり、嫌なものを、排除するという考え方は、持たない。
嫌なものを、嫌ではないものに、変容させるべくの行為をする。
清め祓いとは、悪しきものを、善きものに、変容させる行為である。
欧米の考え方とは、全く別物である。

主の名において、悪魔を祓うという、宗教の嘘に気づくのである。
それがつまり、対立と、非寛容と、排他的行為を生む。
悪魔退治であり、それは、結果、悪魔の存在を許す行為である。

悪魔も、日本にては、神と、姿を変えざるを得ない。
諭されるからだ。

私もそうする。
あんたーね、そんなことしても、嫌われるだけでしょう。良いことしなさいよ。すれば、皆に、拝まれるんだから、さー。解る、言うこと。嫌われて、祓われて、追い出されるより、いいでしょう。どう、考え直しなさい。
それとも、頭悪いの。どうしても、祟るとか、嫌われることしたいの。
じゃあ、封印するよ。そう、閉じ込めるよ。

そうして、日本では、悪霊を、封印して、閉じ込めて、暫くして、再度、諭す。それを繰り返していると、悪霊も、悪魔も、考え方を変える。
勿論、千年、二千年、一億年もかかる、頭の悪い悪魔もいる。
しかし、諭し続ける。

たけきものの心も、慰めるという。
たけきもの、とは、武者である。
勿論、たけき心を持つ者でもある。
要するに、がさつで、デリカシーの無い者である。
慰めるとは、心を鎮めるということである。

がさつで、デリカシーの無い者は、どうしようもない者である。
仕方が無いゆえ、心を鎮めるのである。
静めるとも言う。
まあまあ、落ち着きなさいということ。

大和言葉というものは、黙って、読み聞かせるだけで、力がある。
心を鎮める力である。

この序文も、ゆっくりと、声に出して読むと、心が静まる。
静まらなければ、終わっているから、どうぞ、お好きなように、はからえ。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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