2007年10月10日

もののあわれについて124

世の中の常無きを悲しむ歌

天地の 遠き始めよ 世の中は 常無きものと 語り継ぎ ながらへ来れ 天の原

ふり放け見れば 照る月も 充ち欠けしけり あしひきの 山の木末も 春されば

花咲きにほひ 秋づけば 露霜負ひて 風交り 黄葉散りけり うつせみも 

かくのみならし 紅の 色もうつろひ ぬばたまの 黒髪変り 朝の咲 暮変らひ

吹く風の 留らぬ如く 常も無く 移らふ見れば 行寮 流るる涙 止みかねつも

天地が始まってから、世の中というものは、無常なものであると、語り継いできた。
大空を仰げば、照る月にも、満ち欠けがある。
山の木々の梢も、春には花咲き匂うが、秋になれば、露や霜に打たれて、ひからび、風の吹くままに、散ってゆく。
うつせみの人も、そうである。
青春の紅顔も、いつしか褪せて、ぬばたまの黒髪も、白髪と変じてゆく。
朝の笑顔も、夕には憂いに沈む。
吹く風の見えない如く、逝く水の帰らぬ如く、無常に映り逝く様を見るにつけ、溢れる涙を抑えることが、できない。

朝の咲
あさのえみ
咲くを、笑みと、読ませる。
これは、その時に出来た表現ではない。
縄文期から、人は、笑むことを、咲くことと、同じように、捉えていたのである。

花が咲く。花が笑むのである。
この感性は、如何ともし難いのである。

民族の優劣を言うのではない。
違いを言うのである。
花の咲くのを、笑みとして、捉えた民族がいるだろうか。

言葉に対する感性も、違うということである。

風情に遊ぶ心を、他の民族は、考えられないのである。

風情は、もののあわれ、から、起こる。

さて、上記の歌である。

取ってつけたような、表現である。
憶良の歌を思い出す。

ここで、歴史的背景を持って、分析することであるが、それをしていると、膨大な紙面を使う。
そこで、象徴的なことだけを、言う。

天平宝勝三年。家持、33歳の時の歌である。
越中に来て、四年目であり、妻も、呼び寄せて、安定した暮らしをしている。

この頃、聖武天皇、東大寺に、大仏建造を遂行している。
国家事業としての、対応である。
天平17年着工である。
天平21年に、陸奥国小田郡、みちのくのくに おだこほりにて、黄金が出た。
大仏が、完成に近づき、総仕上げの、金を塗る、その黄金が、不足していた。
家持も、それを聞き、金が出たことに対する、天皇の宣命に対する、寿ぎの歌を歌っている。

仏教は、当時の官僚の最低限の、教養であった。
時の天皇が、仏教に帰依するのである、当然、下々は、それに従う。

ここで、聖武天皇の、大仏建造に、様々な、意見と、見解があるが、私は、それらの説を取らない。

社会主義系の学者は、それによる、民衆の苦難云々という、お決まりの、民衆抑圧の政治の様を言う。社会主義の国で、国民を圧制しなかった国は、あるのかと、問いたいが、詮無いこと。

そして、神道系の学者は、天皇の仏教傾倒を、批判しつつ、大仏建造を否定する。

仏教系は、大乗の精神、日本にて、完成するという。

様々な、立場から云々するが、心に響かない。

冷静に、事実だけを、見る。
聖武天皇は、その大仏建造の有様を、宣命して、伊勢神宮から、諸神諸仏、諸王諸臣から、男子、女子、老齢者、困窮者、あらゆる人々に、特別処置を取った。
さらに、大恩赦を行う。

これは一体、どういうことか。

宣命を見る。
かけまくも畏き遠我皇御世御世の天皇の御霊たちを拝み仕え奉り、衆人をいざない率いて仕え奉る心は、禍息みて善く成り、危うき変わりて平がむと念ほし仕える奉る間に・・・

三宝の勝れて神やしき大御言の験を蒙り、天に坐す神地に坐す神の相うなづない奉り、ききはへ奉り、また、天皇の御霊たちの恵み賜ひ撫で賜ふ事に拠りて、顕し示し給ふ物ならしと念ほし召せば・・・

仕え奉り、という言葉が多い。
三宝の勝れて神やしきく大御言の験を蒙り
さんぽうのすぐれて あやしきおおみことの しるしをかがふり

三宝とは、仏法僧のことである。
それらの、勝れて、神やしき、あやしき、おおみことの、しるしを、頂くという。
神やしきを、あやしきと、読ませる。

神仏混合という、言い方を、続けて、今まできた。

神と、仏と、対立させているのである。

神仏は、日本にて、融合しているのである。

仏教という観念が、輸入された。事実である。
それを、受け入れた日本は、仏教を、神と共に、仕え奉るのである。
つまり、仏は、神であり、神は仏であり、混合するのではない。融合するものである。

仏陀の最大の教えは、あわれみと、いつくしみである。
それを、総称して、慈悲という。

慈悲の思想は、日本古来のものである。
それを、仏陀は、言挙げ、つまり、言うのである。
日本は、言挙げせずであるから、言挙げする、仏教を善しとしたのである。

元から、無いものを、どうして、理解出来るのか。
無いものを、理解せよと言っても、理解する、何物も無いのである。

大乗仏典という、滓のような言葉の世界から、仏陀の慈悲の思想を、看破して、それ、我らが心にあるものであると、即座に取り入れたのである。

仏典を、探り、仏陀の真の教えを、見抜いて、取り出したのである。

だから、聖武天皇の、宣命には、仕え奉るという言葉が多い。

仏陀は、私の霊学から見れば、大和の民と、その族を共にする。
日本に、戻り来た民族と、その地に留まった民族である。
つまり、同じ民族である。

およそ、一万年前のことである。
日本の富士王朝の前身は、9050年前に、大陸にて、王朝を築いていた。
そして、里帰りで、一部の者が、大陸から切り離された、列島を目指す。

仏陀の思想を、仏というが、仏陀は、太陽信仰の民の、末裔である。
混乱極まりない、バラモンの蔓延る地に、人の救いの道として、人は、平等であると、高らかに、宣言したのである。

インドの歴史を調べてみることである。
西から来た、野蛮な人種が、インドに、自分たちの都合のよい、差別を持ち込んだ。
それが、今も存続する、カースト制を善しとする、バラモン教、そして、それを受け継ぐ、ヒンドゥー教である。

同じ血の者が、仏を創作しての、太陽信仰の元を伝えた。
それが、慈悲の思想である。

当然、日本人が、有する情感である。

何も、特別なことは無い。
神道系の者、天皇の仏教への、帰依を好まないとは、知らないからである。
知らないものは、無いのであるから、言うことも無い。

さらに、大乗仏教の完成であるという者。誤りである。
大乗仏教が、日本で完成するということは、魔界の完成ということで、有り得ない。

一部の者のみ、大乗の迷いを受け継いでいるのみで、すべての、日本人は、受け継がない。

その証拠は、これから、大乗仏教の教団、教派、宗派は、壊滅する。つまり、日本仏教団のことである。

そして、社会主義系の、分析である。
彼らは、分析をよくするが、それのみで終わる。
いつも、民衆は、圧政に苦しむと、分析しているのが、関の山である。
社会主義が、人間を幸せにすること、皆無である。
歴史を見れば、解る。

万葉の人の、幸福感を見れば、幸福の基本が解る。
それは、縄文期から、カミという、集団のオサを、戴くことである。
その、オサを、主にして、生活の核心がある。

手、タを結ぶものとしての、カミという、指導者を、戴いて、厳しい自然界で生きる。指導者がいなければ、全滅する。
皆で、まとまらなければ、生きられない。故に、大君を戴く。

大君に、帰依することで、国を、成り立たせるのである。

国とは、コクとは漢語であり、くに、と読めば、大和言葉である。

くウにイ
ウ音は、呼ぶ音霊であり、イ音は、受け入れる、そして、人間の意味である。
国を作る者は、互いに、呼び合う関係であり、受け入れる。そして、集団が出来る。
その集団は、人間の集団であり、霊の存在である。

その集団が、発展し、国は、国家という、国の家となり、多くの人は、共同幻想を抱く。
その、共同幻想の大元に、大君を置いて、ようやく、国家意識と、国体意識が、出来る。

大君は、国家共同幻想の、核となり、それは、大変な責務を負う。

天皇制は、2667年を経る。
これ程に、続いたエンペラーの歴史は無い。
更に、万世一系である。

私は言う。
天皇制が、崩壊しても、どうとも思わない。
しかし、日本の伝統が、崩壊してもいいと、思えばの話である。
天皇制が無くても、国として、十分にやってゆけるのである。

現状の教育を見ていれば、次の世代で、天皇制は、崩壊する。
現、皇太子が、最後の天皇となろう。

私は、実に、凄い歴史の中に、生まれたと思う。

現在の皇室は、本当に気の毒である。
秒単位での、ストレスを受ける。
神として、仰がれた時期のみ、余裕があった。
今は、ただ、気の毒である。

あまりに、気の毒であり、天皇制を廃止しても、よいと思う。
あらゆる価値観に、晒されて、しかし、何一つ、ご自分のお考えを言うことが出来ないのである。

国民は、自由と、平等と、博愛などと、言うが、天皇は、何も無い。
ただ、無心に、無私にして、政務を行うのみ。
国民は、自由と、権利を謳歌するが、天皇は、自由も、権利さえも無いのである。

懐かしいであろう。天皇が、大君と仰がれて、国民が、赤子として、大君に仕えていた頃を。
大君は、国民を思い、国民は、大君を思う。

悪魔の思想、共産、社会主義が、入り、勿論、高天原霊界ではない、別次元の霊界関与の者である、が、入り、人心を錯乱させて、あたかも、正義のように、振舞ったのである。

根本から違うことを知らずに、何をか言う。

私の霊学からは、皆々、別霊界の魂を持つ者である。
さらに言う。
地球以外の惑星から、転生した者である。者というか、物である。

解りやすく言う。
化け物である。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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