2007年10月09日

もののあわれについて122

天平感宝元年6月1日
家持は、日本で最初の、雨乞いの歌を作る。

天皇の 敷きます国の 天の下 四方の道には 馬の蹄 い尽す極み 船の舳の

い泊つるまでに 古よ 今の現の 万調 奉る長上 作りたる その農業を

雨降らず 日の重なれば 植えし田も 蒔きし畠も 朝毎に 凋み枯れゆく

そを見れば 心を痛み 緑子の 乳乞ふ如く 天の水 仰ぎてぞ待つ あしひきの

山のたをりに この見ゆる 天の白雲 海神の 沖の宮辺に 立ち渡り との曇り合ひて

雨も賜はね

すめらぎの しきますくにの あめのした よものみちには うまのつめ いつくすきわみ ふねのへの いはつるまでに いにしえよ いまのをつつに よろづつき まつるつかさと つくりたる そのなりわいを あめふらず ひのかさなれば うえしたも まきしはたけも あさごとに しぼみかれゆく そをみれば こころをいたみ みどりごの ちちこうごとく あめのみず あおぎてぞまつ あしひきの やまのたをりに このみゆる てめのしらくも わだつみの おきのみやべに たちわたり とのくもりあいて あめもたまはね

農業を生業というところに、注目である。
現在は、米余りであり、減反政策である。
米の消費が落ちて、ますますと、米作りが大変になっている。

端的に言う。
米を食べること、文化である。
米を食べないという、文化に移行したということだ。
さて、では、農業、なりわい、といわれる、日本の米作りを、どうするか。

米を食べる、余裕が無いほどの、生活をしている。世の中だということである。

滅び行くものであれば、いたし方無い。
ただ、稲作を行う、私が尊敬する人々に言う。
農協から、離脱して、自ら、自らの作る米を売ることである。
ベンチャー企業の若手の、意識ある、トップにかけあい、売り込むことである。また、消費者に直接売ることである。
農業という、生業を、今こそ、変容させる時である。

そして、米の文化が、日本の正式国名、豊葦原瑞穂の国であること。穂は、日本の象徴である。
その、穂を持って、他国に出るということもある。
日本の米以上に、美味しい米を作るところは、無い。

日本で米が食べられなくなったのであれば、輸出すること。
勿論、政治家の意識が必要である。

食料自給率が、四割に満たない、この現状を、脅威として、捉える政治家がいないようである。
命は、食べ物によって、成る。
命の教育とは、食べ物の、教育である。

昔、米は、金と同じ価値があった。それは、江戸時代末期まで、続く。
大名を測るに、何万石と、米の量を言う。
しかし、時代は、変わった。変わった時代に、昔の価値を求めても、詮無いこと。

貧しい国を、さらに貧しくして、日本の食糧事情がある。飢えている人を、尻目に、日本は、大量の食糧を輸入し、果ては、捨てる。
いつまで続くのか。
米を食べなくなった。つまり、いつまでも、続かないではないか。
この変化を見れば、当然の帰結である。
稲作は、滅びる。

滅びては、いけないと思う者、その意識のある者、多数を持って、それを打破するべき時である。
農協を捨て、新たな組織を作り、ご飯だけでない、米の理由方法、そして、直接販売等々を考案すべきだ。

米は、どこでも売れるようになった。
これが、ポイントである。
日本の米が、世界を救うこと、誰も気づかないこと、哀れである。

さて、家持は、自分の管理する土地に、水を求めて、歌を作る。そして、それは、叶えられた。言霊の力である。

訳す。
大君、すめらみこと、が、しろしめたまう、天の下。
この国の、残る隈なく、馬の通う限りの陸路から、船の泊まり得る限りの海原から、いにしえより、今日に至るまで、数限りない種々の産物が、貢物として、捧げられてきたが、中でも、大切なものは、農産物、米です。
その農産物が、雨降らないままに、重なり、植えた田も、蒔いた畠朝毎に、枯れてゆくばかりです。
これを見ますと、胸が締め付けられます。
みどり児が、母の乳を求めるように、天つ水が、降り注ぐのを、飢え乾くごとくに、待ち望んでいます。
山のくぼみに見える、白雲。あの白雲が、海原遠く、海の神の沖の宮のあたりまで、一面に広がり、曇りを深くして、雨を降らせてください。

上記の歌、確かに、雨を降らせる言霊である。

祈りの言葉である。

反歌
この見ゆる 雲はびこりて との曇り 雨も降らぬか 心足らひいに
ただ今見える、山の向こうの雲。広がり広がり、雨を降らせよ。心ゆくまで、雨を降らせよ。

その、四日後、雨が降る。

わが欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ

わがほりし あめはふりきぬ かくしあらば ことあげせずとも としはさかえむ

年とは、当時の稲のこと。
祝詞では、尊称して、御年とも、呼んだ。

私が願った雨が、降った。
このようにことであれば、言葉にせずとも、今年は、豊年だろう。

言葉にすることを、言挙げすると、いう。
言挙げせずとも、豊年であろうという、確信を得たのである。

自然を恵みと、捉え、また、自然を脅威と、捉えて、自然と、共生、共感する。
これを、唯神、かんながら、と言う。
さらに、これを、神道と、呼ぶ。
加えて、私は言う。
現在の神道は、宗教である。ゆえに、元の神道を、古神道と、呼ぶ。

日本の、唯神の道を、欧米の思想である、神観念で、捉えるなと、言う。
全く、別物である。

あちらは、人霊が、神と、名乗り、傲慢極まりない、規則や作法、そして、契約を結ぶという、愚劣である。

こちらは、自然に、添い、自然に、畏敬しての、宗教的とも言える、行為である。

故に言う。
日本には、宗教は無い。
現在言われる、宗教という名の元に集う者、多数は、邪である。
邪とは、言葉の世界に遊ぶ者である。

それを、観念と言う。

それらは、観念まみれになり、霊界にても、観念まみれで、迷うのである。

キリスト教の恩寵も、仏教の成仏も、観念であり、想像の産物である。
自己暗示によって成る、救いという観念に、埋没する様、ただ、ただ、哀れである。
もののあわれ、ではない。
単に、哀れである。



posted by 天山 at 00:00| もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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