2007年10月07日

もののあわれについて120

越中に出向いて、二ヵ月後に、訃報が届く。
家持の、たった一人の弟が、亡くなったのである。
父を早くに亡くしていた、家持の頼りであった。

その弟の死を嘆いた、長歌を読む。

天離る 鄙治めにと 大君の 任のまにまに 出でて来し 吾を送ると 青丹よし

奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬とどめ 別れし時に ま幸くて 吾帰り来む

平けく 斎ひて持てと 語らいて 来し日の極み ・・・・・

あまさかる ひなおさめにと おおきみの まけのまにまに いでてきし われをおくると あおによし ならやますぎて いずみかわ きよきかわらに うまとどめ わかれしときに まさきくて われかえりこむ たいらけく いはいてまてと かたらいて こしひのきわみ ・・・・

遠い田舎の地を治めよと、大君の命を受けて、その任務のために、吾を送るために、共に歩いた弟。
奈良山を過ぎて、清い流れの河原がある泉川で、馬を止めて、別れた弟。
お互いに、平穏無事でと言った弟。
元気で、お戻りください、ご無事を祈ると、都に戻った弟。
語り合った、あの日の、ことを思うと、断腸の極みである。 

反歌

ま幸くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも
まさきくと いひてしものを しろもくに たちたなびくと きけばかなしも

互いに、元気で、幸せにと言い合った。その弟が、みまかり、白雲となって立ちたなびいてしまったと聞けば、悲しまずに、いられようか。

反歌に、万葉初期の、残滓がある。
死を、白雲として、認める。
立ちたなびく、のである。

失うという感覚を、喪失感という。
人の死を、また、自分の死を、どのように、捕らえるか。これが、人生、最大の哲学である。

まさきくと いひてしものを しらくもに たちたなびくと きけばかなしも

31文字に託す、悲しみである。

実に、理解しやすい歌である。
奇をてらうこともない。
きけばかなしも
それは、見ても、悲しいのである。

人の死に、佇む人。
いずれの人も、いずれか、人の死に佇むのである。

カウンターテナー藤岡宣男の死を確認し、私は、一人、慟哭に、のた打ち回った。
慟哭に、獣のように、声を張り上げて、さらに、慟哭した。

その死を受け入れ、その死を悲しむということ。
延々と書き続けても、終わることなく、書き続けなければならない。
つまり、言葉に出来ないのだ。

言葉に出来ない思いを、言葉にする時、最低限の言葉を使うのみ。
それが、和歌である。

万感の思いを、言霊と、音霊に託すのである。

それが、日本の歌である。
それが、日本の、もののあわれである。

きけばかなしも

この、かなしも、を、延々と説明することなく、延々と、心の世界に、誘う歌。
言の葉である。日本語とは、そういう言葉の世界である。

以下省略。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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