2007年10月06日

キリスト6

「種まく人が種をきまに出て行った。すると、まいているうちに、あるものは道端に落ち、鳥がきてそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上がると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれをおおいふさいだので、実を結ばなかった。他のものはよい土に落ち、伸びて大きくなり、実を結んで、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」
「聞く耳のある者は聞くがよい」

ここまで噛み砕いても、当時のユダヤ人は、改心などしなかったのである。
主イエスは、イザヤ書の一説を言う。
「彼らが見るには見るが認めないように、
聞くには聞くが悟らないように、
こうして改心してゆるされることのないように」
改心してゆるされることのないようにとは、実に、逆説である。

聖書解釈は、面白いことを言う。
イエスを認めないという悪で、善を引き出すというのだ。
結局、主イエスを神としたのは、当時の言葉で言えば、異邦人である。つまり、ユダヤ人ではない。
ユダヤの神としてのイエスをユダヤ人は、拒んだ。それにより、世界的宗教に発展したのだという説である。
ユダヤ人の悪により、イエスの神である善が、表出されたというのである。
それも良い。

「あなたたちはこのたとえ話がわからないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話がわかるだろうか。種まく人はみことばをまくのである。みことばがまかれた道ばたのものとは、こういう人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンがきて、かれらのうちにまかれたみことばを取りさってしまう。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、かれらには根がなく、一時的なもので、後になってみるとみことばのために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、かれらのうちにはいってきて、みことばをおおいふさぎ、実を結ばない人たちのことである。また、よい土にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、またある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである。」

聖書研究の是非について、あるいは、正統、異端については、何の目安も無い。
仏教の経典などは、そういう意味では、論外であろう。誰も、その審議を見極められないのである。
これが正しいとは、誰も言えないのである。それを言うから、おかしい。

イエスの言葉は、実に、冷酷無残である。
世のクリスチャンが、どのレベルで、みことばを受け入れているのかは、歴然としている。
岩地に蒔かれたみことばが、今のキリスト教徒である。
それ以上にならない。

面白いのは、最初に道端に落ちたみことばである。サタンが来て、取り去るという。つまり、みことばなど、受け入れない人がいるということである。
三蔵法師玄奘が起こした、法相宗には、救われない者が確実にいるという教義が在る。実に、正しい。
日本仏教は、最澄から、山川草木皆仏という。そして、皆が確実に救われると説く。耳障りの良い言葉である。誰の心にも、仏が在るという。
人の心の仏を引き出すということでの、新興宗教の活性振りは、凄まじい。
嘘である。
仏の無い者もいる。確実にである。
イエスも、サタンを持ち出しているが、確実に救われない者がいることを言う。
人間に皆、神が宿ることはない。

神道系の霊的能力者であれば、それは常識である。
魔界転生の者がいるのである。

当時のユダヤ人は、サタンがきて、取り去ってしまうのである。
つまり、ユダヤ人とは、サタンのお友達である。
そんな中で、何故、あえて仰天する説教を繰り返したのか。殺されることは、必至である。
そこに、イエスキリストの存在意義がある。

ローマカトリックに代表される教団の前に、原始キリスト教の集団があった。
派閥である。しかし、一つの派閥が、支配者と結びついて、正統とされる。それがローマ教会である。
果たして、それでいいのか。とは、誰も考えない。思考停止にされた。それが中世の異端審判である。
異端を皆殺しにした。それで成った、教会である。
信じられるだろうか。
そして、権威を持つ。
壮大な建物を建てて、人の目を眩ませた。
法王は、権威をかさに、国王よりも、その支配力を行使するという暴挙に出る。
これは、このテーマではないので、以下省略する。

プロテスタントの一派に、聖書を、どのように解釈してもいい。皆、それぞれの解釈があっていいという宗派もある。聖書主義というが・・・

ここで言う、みことばとは、主イエスの言葉である。それは、主イエスである。
ここで、聖書解釈が、すべて教会に都合のようように解釈されることを言う。
以後、それについては、書く。

対照的に詔について言う。
みことのり、とは、天皇の言葉である。
それは、天皇が皇祖皇宗に代わって、述べる言葉である。
御言葉を、みことばというのだろう、みことばとは。
大和言葉では、命、みとこの、葉である。
命葉は、言の葉と同じである。
みこと、ば、と大和言葉では、分ける。
聖書のみことばは、み、ことばと分ける。
格段の違いがある。

みこと、とは、尊称である。神に対する尊称である。
言葉は、神であるという言霊の思想である。
あちらの、みことばは、主イエス自身のことである。神は、沈黙の存在である。言葉を発するのは、主イエスか、サタンである。
大和言葉は、言葉に尊称をつけて、みことばと言う。
音自体が神である。言葉に神格がある。

ここで、あちらが、言葉遊びの場所であることが解る。言葉で語りつくすということを、主にする。
また、語り尽くせると思い込むのである。
語れば語る程、空しくなることを知らない。
膨大な旧約聖書を見れば解る。

サタンが登場するが、サタンは、言葉の世界で活躍する。あちにの哲学、思想を見れば、一目瞭然である。そして、それゆえに、安心するという。
まだ、ギリシャ哲学の時代は、ソクラテスのように、多くを言葉にしない哲人がいたが・・・
そのギリシャ哲学の言葉は、ロゴスである。
聖書のみことばも、ロゴスと言われる。
ロゴスについて書くには、膨大な言葉が必要であるから、省略するが、キリスト教神学も、ギリシャ哲学より成るということを言う。

実は、そのギリシャ哲学も、イスラムから入ってきたものである。ギリシャからイスラム帝国へ、そして、ヨーロッパに戻ってきた。
イスラムを通してのギリシャ哲学であることを、加えておく。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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