2007年10月05日

もののあわれについて118

紀郎女に報へ贈れる歌
きのいらつめに こたへおくれるうた

ひさかたの 雨の降る日を ただひとり 山辺に居れば いぶせかりけり

音も無く雨の降る日を、ひとり山のほとりで、過ごしています。
いぶせかりけり
なにやら、心の晴れぬ思いである。

鹿の鳴く声の歌
しかのなくねのうた

この頃の 朝けに聞けば あしひきの 山よび響め さ牡鹿鳴くも
このころの あさけにきけば あしひきの やまよびとよめ さおしかなくも

この頃は、朝早くに聞く鹿の声。静まり返る山の風に、応えるように鳴くのである。

家持の歌一首

高円の 野辺の秋萩 この頃の 暁露に 咲きにけむかも
たかまどの のべのあきはぎ このころの あかときつゆに さきにけむかも

高円の秋萩も、色が濃くなった。暁に、露に濡れて、可憐な花を咲かせているのであろう。

独り平城の故き宅にいて作れる歌二首
ひとりならのふるきいえにいて つくれるうたにしゅ

橘の にほえる香かも ほととぎす 鳴く夜の雨に 移ろひぬらむ

鶉鳴く 古しと人は 思へれど 花橘の にほふこの屋戸
うづらなく ふるしとひとは おもへれど はなたちばなの にほふこのやど

最初の歌は、橘の、ほのかな香りが、そこはかとなく漂う。その中で、ホトトギスが鳴く。この夜の雨に打たれて。
次の歌は、鶉が鳴くような古びたところだと、人は言うが、橘の香り、ほのかに匂い漂う、この家の風情は、何に例えられるだろうか、と歌う。

いよいよ、家持の歌、古今や、新古今に近づくのである。
いや、古今、新古今の幕開けである。

ある諦観を持った、孤独の様、しみじみとした歌である。

家持は、外の世界を、我が内に宿して、歌を読む。
孤独の中に、風景を取り入れ、さらに占領されて、歌を読む。

家持の孤独感を観る。
コドクとは、漢語であり、大和言葉では、ただひとり、と読む。
孤は、みなしご、ひとりと、読む。
孤児とは、親がいない。親がいない程の独りの感覚である。

ただひとり、の、言霊が、もののあわれ、に、連なる。

家持の孤独は、時の政情にもある。

聖武天皇の、国分寺創建の詔、大仏造顕の詔による、仏教擁護、及び、仏教に対する深い帰依の行為とは、別に、その裏では、権力争いが、激烈化していたのである。

簡単に説明すると、聖武天皇は、藤原不比等の孫に当たり、さらに、天皇の后の父であるから、義父に当たる。
藤原全盛の時期である。

724年に、聖武天皇即位である。不比等が亡くなったのが、720年である。
その後、不比等の四人の兄弟が、露骨に、権力欲を現すのである。

聖武天皇の、大仏造成については、庶民の生活を苦難に貶めての、云々という、学者たち、多く、また、逆に、大乗仏教の精神を、日本にて、顕示すべくの、云々という説もあり、多々、皆の言い分はあるが、私は、明らかに、天皇が、政治とは、関わらないという、姿勢を示したものであり、庶民を使役して云々も、大乗の教え云々も、どちらも、取らない。

大化の改新を成し遂げて、安定した、矢先に、またも、権力の争いである。

天皇の詔を読めば、天皇の、お心が、理解できる。

浅ましい人の心に、本来の観るべきものを、提示するのである。
大乗の教えに、帰依せざるを得ない天皇の、御心である。

家持は、冷静に、その様を見つめていた。
そして、帰着するところ、孤独、ただひとり、という、境地にゆく。
もののあわれ、である。

政変に触れることなく、歌を読む。
しかし、それも、42歳を最後に、読まないのである。

ここで、書かれるものについて言う。

書くという行為は、二流、三流の行為である。

伝えるものを、強く持つ者は、書くことがない。
仏陀、イエスキリスト等々、書くことをしない。
ただ、行為するのである。
この世では、行為以上の行為はない。

書けば、嘘になる。
つまり、如何様にも、解釈される。

如何様にも、解釈されることを、善しとして、作家は書くのである。
その決意があって、物を書く。
物書きは、実に、最低最悪の者なのである。

書き捨てである。
ゴミを捨てるのに、似る。
どれ程、優秀な作家でも、それから、逃れることは出来ない。

勿論、今、これを書いている私も、二流どころか、五流以下である。

もののあわれ、を行為する。
それが、真実である。

見よ、膨大な妄想の経典を。
皆々、それを、根拠に、何事か、解釈し、さらに、学問という意識に高める。
何一つの、根拠も無いのにである。

嘘八百、詐欺である。

人を判断するに、最も、正しいのは、何を行っているかである。
一目瞭然である。

毎日、その人が、何を行為しているのか。
人生の真実は、そこにしかない。

願望は、成就するという、成功哲学を、鵜呑みにしているアホには、決して解らない。

行為は、行為によってでなければ、成り立たない。
願望は、願望である。
望みを願うことに、一体、何があるのか。

買わない宝くじは、当たらないのである。
まして、買っても、そうそう、やすやすと、当たらないのである。

無限魔界の国、アメリカから来る、システム販売の様を、見れば、貧乏人が、皆々、金持ちになるという。
検証するに、決して、そんなことはない。
確実に、限られた人のみ、金持ちになる。
それを、手本に、自分も、そうなると信じる、つまり、妄想する。

成功の意味を、知らない者の、やること、ゆめゆめ、愚かである。

額に汗して、労働することの、真実を知らない者、多数の国は、確実に、消滅する。
また、そのような、労働をよくする人を、大切にしない、国政は、破綻する。

何故、歴史に学ばないのか。
そうそう、歴史を教える者、歴史を、知らないからである。
誰か。
学者である。

さらに、家持の歌を続ける。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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