2007年10月02日

もののあわれについて115

万葉集巻15に、遣新羅使人の歌、145首がある。

天平8年、736年、2月に、派遣が決まる。
大使は、安倍継麻呂である。副使は、大伴三中である。

6月に、難波を出発して、瀬戸内海を通り、新羅へ向かう。
玄界灘を通り進むが、大変な労力をかけての、派遣である。

ようやく、玄界灘を渡り、壱岐島に着く。
しかし、結果、新羅は、唐が後ろ盾につき、日本を相手にしなかった。

翌年の天平9年1月に、ようやく、都に戻るが、大使の安倍は、対馬で亡くなった。副使の、大伴も、病で、遅れて帰ることになる。

145首の歌は、すべて、望郷の思い深い歌である。

一行の中に、雪連宅満 ゆきのむらじやかまろ、という者がいた。
疫病で死ぬのである。
その挽歌が、9首、歌われている。
それらの歌の反歌である。

六鯖 むさば、という者の歌。

新羅へか 家にか帰る 壱岐の島 行かむたどきも 思ひかねつる
しらぎへか いえにかかえる ゆきのしま ゆかむたどきも おもひかねつる

新羅へ行こうか、それとも、戻るか。その術も、考えあぐねる。

同僚の死に、動揺している様である。

それでは、他の歌も読む。

百船の 泊つる対馬の 浅茅山 時雨の雨に もみたひにけり
ももふねの はつるつしまの あさぢやま しぐれのあめに もみたひにけり

もみたひ、もみたふ、とは、紅葉する。それが、継続している様。

多くの船が、停泊している、津、すなわち港の、そばにある浅茅山は、すっかり、時雨の雨に、もみじも濡れている。

そして、大和の、もみじを思うのである。

対馬には、21首の歌が残る。

天ざかる 鄙にも月は 照れれども 妹ぞ遠くは 別れ来にける
あまざかる ひなにもつきは てれれども いもぞとおくは わかれきにける

こんな遠くの田舎にも、月が照る。今頃、大和の家でも、妻が、月を見て、私を思い出しているだろう。

ここで、私が言いたいことは、彼らは、歌詠みではないということである。
庶民である。
それが、こうして、歌を読むという行為である。

表現の行為が、限られていたともいえるが、歌詠みにならなくても、歌を読むのである。

研究家は、彼らの歌を評価しない。
しかし、そんな問題ではない。
皆々、歌を読むということである。

歌心という、心的状態を、皆々、持っているのである。

歌を歌う者だけが、歌心を持つのではない。
当時は、皆に歌心があり、心の様を歌にするのである。

それが、自然に五七調になる。
七五調になる。

五音と、七音というのに意味がある。

言霊は、音霊、おとたま、に、支えられてあり、音霊は、数霊、かずたまに、支えられてある。
言霊を言う時、数霊を知らなければ、言霊についても、知らないということである。

言霊は、数霊である。

数に、秘密がある。

ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たり ももち よろず
とは、祝詞であり、それは、唱えるべきものである。
数は、貴いものであると、それを、言挙げすることで、祓い清めをする。

ひ ふ み よ い む な や こ と
それも、同じである。

悪霊、邪霊、浮遊霊、自縛霊、怨霊、祟り霊、つまり、悪しき霊を、祓い清める時に、数霊の祝詞がある。
祓えの祝詞である。

数というものは、聖なるものなのである。
清いもの。
数が乱れれば、すべてが、乱れる。

簡単に言う。
一の次は、二である。四がきたり、八がきたりすることはない。
五の、前後は、四と六である。

清いということは、正しいということである。

これは、すべて、私の霊学と、古神道である。

音が、五と、七によって、歌となるというところに、日本の心がある。

短歌も、俳句、廃れることがない。

歌とは、いつ、と、なな、である。
いつなな、が、歌である。

うウたア、とは、呼ぶ、そして、開く、拓くことである。

神を呼ぶのに、ウの音が使われる。
神というのが、嫌なら、霊でもよい。

霊呼び。つまり、魂振り、である。
鎮魂とは、魂の鎮めである。その鎮めのためには、魂振りが、必要である。

魂振りとは、魂を引き寄せる行為である。
振るというからには、揺らすのである。
体が揺れる。揺れると、霊が、揺れる。つまり、霊が、目覚める。
眠れる霊を、目覚めさせる行為を、魂振りという。

霊を呼び出して、霊を鎮める行為を、古来、古代から、日本人は、行ってきた。
肉体を失った霊に、さらに、霊の格を高めるために、それを為してきた。

実は、短歌を詠むということは、鎮魂の行為なのである。
五音と、七音によって、御魂鎮めを行った、民族なのである。

御魂鎮めとは、清くなるという意味である。

簡単に言う。
歌を歌い、それによって、己の霊を、清める、悪しきものから、遠のくのである。

仏教で、成仏するというのは、次元を移動するということである。が、成仏することは、通常の人は、出来ない。出来ることは、往生するということである。
仏陀が言う、仏に成るということは、通常は、出来ない。それは、観念に縛られているからである。
仏は、観念を超えた、存在である。

人間は、観念を超えることは出来ない。

精々、往生するのが、最上のことである。

しかし、古神道は、往生も、成仏も無い。

そのまま、自然に回帰するのである。自然に回帰することを、神に成る。鎮魂と言う。

実は、成仏も、往生も、観念であり、それによって、次元移動するだけの、ことである。
次元移動する、その次元が、どの次元であるかが、問題である。

全ての宗教は、四次元まで、移動しない。
この三次元の先にある。
故に、幽霊となる。

霊に、向上しても、四次元に留まるのである。

そして、転生を繰り返す。

仏陀が、見出した、仏とは、この次元ではなく、宇宙の外、つまり、無に帰するということであり、それは、単なる理想である。

完全無欠の、無になることは出来ない。
何故なら、宇宙の外に出ることは、出来ないからだ。

仏陀は、まだ、宇宙の中に居る。それが、なによりの、証拠である。

私の横に、霊の世界が在るのである。

霊的進化は、まだまだ、始まったばかりである。

五と、七の数については、いずれ、明らかにする。



posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれ第2弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。