2007年10月01日

もののあわれについて114

富士山を歌うもので、作者不詳のものを、読む。

不尽の山を詠める歌一首

なまよみの 甲斐の国 打ち寄する 駿河の国と こちごちの 国の中ゆ 出て立てる

不尽の高嶺は 天雲も い行き憚かり 飛ぶ鳥も 翔びも上らず 燃ゆる火を

雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得ず 名づけも知らず 霊しくも

坐す神がも 石花の海と 名づけてあるも その山の 包める海ぞ 不尽河と

日の本の 大和の国の 鎮とも 坐す神かも 宝とも 成れる山かも 駿河なる

不尽の高嶺は 見れども飽かぬかも

なまよみの 甲斐の国
なまよみ、は、甲斐の国に、かかる、枕詞。
語義は、不明である。

打ち寄する 駿河の国
打ち寄する、は、駿河の国に、かかる、枕詞。
その語義は、駿河は、東海に面し、絶え間なく、浪が打ち寄せるところからのもの。

こちごちの
あちこちの意味。

国のみ中ゆ
み中、は、み、は、尊敬をあらわす接頭語。
甲斐と、駿河の国の真ん中。

天雲も い行き憚り あまぐもも いいきはばかり
天雲は、特別な雲の名称。
空行く雲も、富士山の霊域、霊異を、謹んで行きためらうという、意味。

飛ぶ鳥も 翔びも上らず
鳥も、山が高く、高くは、飛べない。
また、神威を畏れて、高くは飛ばないのである。

燃ゆる火を
富士山噴火の火をいう。
富士山は、活動していた。
781年7月、800年6月、864年には、5月と、7月、翌年865年12月も、噴火があった。

霊しくも 坐す神かも くすしくも いますかみかも
富士山を神として、霊妙に坐すという。

石花の海 せのうみ
西湖と精進湖は、一つの湖だった。石花、せのうみ、と呼ばれていた。
864年の噴火で、二つに別れた。

不尽川
富士川のこと。


なまよみの甲斐の国と、絶え間なく波打ち寄せる駿河の国と、その真ん中にそびえる、富士山の高嶺は、大空を行く雲も、謹んで行きは憚り、飛ぶ鳥も、畏れて、高くは飛ばない。
燃え上がる噴火の火を、降る雪で消し、降る雪を、燃え上がる焔で消す。
言いようもなく、名づけようもない。
ただ、霊妙にましまして、神とおわします。
石花の海と、呼ばれているのも、その山が裾野に、抱きたまう湖であり、富士川と名づけて、人が渡るのも、その山から、たぎる水の流れ。
まことに、この日の本の、国の鎮めにてまします。
この国の、国の宝となりませる。
駿河なる、この富士の高嶺は、見ていても、見飽きることはない。
霊妙、神妙なる神に、おわします。

赤人の富士の歌を、もし、名作と言うなら、この歌は、その名作を遥かに超えている。
超作である。

言ひも得ず 名づけも知らず 霊しくも 坐す神かも

先祖代々からの、富士山に対する畏敬の思い深く、目の前の富士山と、心の富士山が、対立しないのである。

赤人の、小手先の感動ではない。
特別な言葉を、用いることなく、淡々として、しかし、形式に陥らないのである。

これを、このままに、富士山に手向ける言葉、つまり、祝詞となるのである。

これが、一般国民の富士山に寄せる感情であったということである。

ひのもとの やまとのくにの しずめとも いますかみかも たからとも なれるやまかも

これは、十分な祈りである。

この歌を口にして、富士山を、讃えていたことが、うかがい知れる。
作者不詳の歌は、特定の人ではなく、多くの人、皆の歌として、人の口に上ったのである。

もののあわれ、とは、存在するものの、あるがままの姿を観る、行為である。

全く超越したような、観念にあるのではない。

もののあわれ、あるがまま
その、あるがままに、霊妙、神妙を観るのである。

ついには、人の心の、霊妙さ、神妙さであり、その心の、曖昧、たゆたうものを、観るものである。

何一つ、断定するものは、ない。
自在、微妙に変化し、流れる心の様を、あるがままに、観る。
もののあわれ、である。

もののあわれ、には、畏敬の思い、溢れてある。

私は、シュバイツァーが言う、生命の畏敬という言葉を、大和心から、実感する。
シュバイツァーの、著作には、生命の畏敬が溢れている。そして、生命を神として、また、畏敬するのである。

生命を、神として捕らえるというのは、大和心である。

そして、ヘレンケラーにも、それがある。
雲があっても、その上に太陽があるという、確信である。
それを、神という。
太陽、つまり、命の輝きである。

両者共に、クリスチャンであるが、大和心を知れば、実に彼らは、理解したであろう。

何となれば、命を神と観るのである。

いのち、を、かみ、と、みるのである。

大和言葉では、命を、みこと、と読む。

いのち、は、みとこ、なのである。

日本に、宗教が無いのは、大和言葉が在るからである。
日本には、宗教的行為しかない。
宗教は、必要ないのだ。

何故なら、生きとし、生けるもの、すべてが、神、みとこ、だからである。

もののあわれ、は、その生命の畏敬のことでもある。




posted by 天山 at 00:00| Comment(0) | もののあわれについて | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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