2007年09月11日

弁護

山口県光市の母子殺人事件の裁判である。
当時、18歳の少年が、殺害後に、23歳の妻を犯した。
現在26歳である。

その弁護団に、橋下弁護士という者が、マスコミで、弁護人の懲戒請求を求めた。
それに対して、弁護団の4人から、損害賠償請求訴訟を起こされた。

橋下弁護士は、弁護団は、1.2審で争わなかった犯行態様について、差し戻し審で、新しい主張を始め、主張を変えた理由を、遺族や社会に説明していないというものである。
さらに、弁護団は、最高裁の弁護を、日本弁護士連合会の模擬裁判のリハーサルという理由で欠席したことを、謝罪しないという。

弁護士の信用を失わせ、品位をおとめしているというものである。

さて、この弁護団は、死刑廃止の論者だという。

被告の弁護をするというのは、憲法に保障された人権の有り様である。
上記の少年は、死刑に相当する。
しかし、少年の口述を、更に、推し進めて、新たな口述を良しとした。

例えば、犯した行為を、生き返るだの、押入れに入れたら、ドラエモンが云々だのという話である。
要は、少年の未熟さを、情状酌量にすることを、言うのであろうろ。

私は、加害者の人権を認める者だが、それ以上に、被害者、そして、遺族の人権も認める。

少年の犯罪は、極刑である、死刑に相当する。問答無用である。

被害者の夫である方も言うが、法律が為さなければ、自分が手を下すと言った。最もである。彼の犯行は、許されることではない。
それが、どのように、未熟だといっても、許されないことは、ある。

更正。
これが、問題である。

更正の余地ありと、認めると、減刑される。

少年犯罪で、更正の余地ありと認められた、少年院を出た、もう青年のお勉強を見て欲しいと頼まれた人の相談を受けた。
その事件は、極悪非道の事件であった。
私は、引き受けるように言ったが、結果は、あまりの、非道さの事件であり、遺族のことを思うと、引き受けられないという結論である。
その人は、言った。
しかるべき、償いをすべきであり、真っ当に教育を望むこと自体が、おかしいと。

少年犯罪の問題である。
どこまでが、少年として許されるか、である。
もし、大人が、つまり、少年でない者が犯せば、死刑である事件でも、少年であるということで、減刑されるという。
理想論を語る人には、更正という言葉が生きるが、遺族や、親族、そして、私のような者には、通用しない。

やったことは、償うべきである。

社会は、宗教の世界ではない。
許すことによって、許される、などという、アホなことを言っていては、社会が成り立たない。
また、更正という、欺瞞である。

勿論、更正という行為によって、真人間になるという、ことはある。
そういう人も、多く知っている。
しかし、事件の有り様、その事件の社会的影響を考えれば、死刑を求刑すべきものもある。
人間にあらずの行為、事件を犯した者は、少年であっても、死刑である。

命を、命で、償うこと。これに尽きる。

理想を為すには、人間が成熟し、それ相応に、成長していなければならない。
今、時代は、そんな時代ではない。

あまりにも、未熟で、未成長である。
ゆえに、死刑を求める。

何人も人を殺してはならないという、理想論は理解する。ゆえに、死刑廃止にも、理解を示すが、それには、人間の質が問題である。
社会性の意識が低い者は、死刑制度がなければ、極悪事件を簡単に起こすのである。

死刑という檻を設けないと、無法地帯になるのである。

かけた情けの枝で死ぬ、ことになる。
死刑廃止にするほど、人間は成長していないのである。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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