2007年08月24日

695日祭

8月25日は、藤岡宣男崩、神上がり、という。695日祭である。

崩を、かむあがり、と読ませた。
古代、人の死は、隠れると言った。
その身を隠してしまうことを、かむあがりと、言う。

人は、死んでも、無くならないのである。
消滅するということは、有り得ない。
宇宙の外に出るというならば、消滅もあるだろうが、宇宙の外は、無い。完全無欠の無である。
宇宙の中に、実は無という空間は無い。妄想である。
ただし、未解決のブラックホールから、宇宙が生まれた。その場が、無であるとするならば、するでよし。未知なるものを、人は無と呼ぶ。

水は、蒸発して、空に上り、また、雨として降る。
そのように、人の死も、考えた。そしてそれは正しい。

さて、695日祭である。

命日というのは、命、みこと、と読み、命上がりの日という意味である。
命の日とは、不思議な言い方であるが、誰も、気に留めない。
命とは、死者に対する尊称である。
日本人は、死者を命と呼び、神になると確信した。
すると、アホが、神、神格化などと言う。
日本の神観念は、一神教の神観念はない。
そして、神格化もしない。

日本が言う神は、霊のことである。

ちなみに、霊魂という。霊と、魂と分けて考える。
それも、実に正しい。

霊と、魂は、働きが違う。

仏教の言う、転生輪廻は、誤りが多い。
生まれ変わりというが、私が死んで、また、私が、そのまま、生まれ変わるということは、無い。
私の霊格、人格は、霊界に残る。転生は、私の一部が、つまり、分霊という形で、人の魂に関わるのである。
しかし、これ以上は、混乱するであろうから、省略する。

霊界は、我と私が逢う空間である。
我と、私とは、混乱するでろあう。
本当の私に、私が逢うのである。
それでは、この世の私は、本当の私ではないのか。本当の私とは、全意識を意識した時に、解ることである。

ただ今は、ほんの意識の部分のみで、生きて考えている。

私は、藤岡宣男と、695日も、逢うことなく過ごしている。
一日たりとも忘れることはない。
そして、日増しに、別れた悲しみが強くなる。

忘れることなど、有り得ない。
普段は、忘れて過ごしているということもない。毎日、何度も思い出すのである。
それは、ある種、苦難に似る。
様々な思い巡らし、七転八倒することもある。

これを生きるためには、と、考えて、今を生きる。

人は、人にして上げたことは、忘れない。人にされた好意は、忘れる。いかに、自我意識が強いのか。

藤岡が、完全無欠の人間ではなかったことが、私には、救いである。
几帳面で、しっかりしていたところもあるが、どこか抜けていたところもあり、愛すべき存在だった。

さて言う。
藤岡宣男は、無くなってはいない。
死んで無いと思うことの、いかに愚かなことか。
次元を異にしている。
そして、次元の幅が、この世から離れていればいるほど、手が届かないのである。
私の悲しみは、それである。

肉体というものに、阻まれて、次元の格差を埋めることができないのだ。
勿論、コンタクトはある。しかし、肉体がある時のように、直に話すことができない。

それに、浮遊していないから、簡単にコンタクトは、できない。
迷いにあるならば、招霊することもできる。
だが、藤岡は、霊界に場所がある。
故に、私は、悲しいのである。

アメリカにいるというならば、電話で話すこともできる。
しかし、次元が違えば、もう、こちらの能力では、如何ともし難いのである。

聞く者、聞くがいい。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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