2007年06月28日

キリスト16

イエスの教えを聞いた多くの人を去らせようとした弟子たちにイエスは言う。
「パンがいくつあるか見てきなさい」かれらはそれを調べてきて、「五つあります。それにさかなが二匹です」と言った。イエスはみんなを組に分けて青草の上にすわらせるように、弟子たちにお命じになった。人々は百人ずつ、あるいは五十人ずつまとまってすわった。
イエスは五つのパンと二匹のさかなを手に取り、天を仰ぎ、賛美をささげてパンをさき、弟子たちに渡してみんなに配らせ、また二匹のさかなもみんなに分け与えられた。
みんなは満腹するまで食べた。そして残ったパンとさかなを拾い集めると、十二のざるいっぱいになった。パンを食べた人は男五千人であった。

青草の上とあるから、春である。
聖書研究は、パンの奇跡を、聖体の秘跡と捉える。教会のミサの聖体である。
勝手な解釈である。

食べ物は、命に象徴される。
人はパンのみによらず、神の言葉によると言うイエスは、パンが命の糧であることを示している。
食べなければ人は死ぬ。

パンを食べた人は男五千人という。女は数に入らない。
この奇跡の意味を教会の教義上で考えると、何も解らない。

これは、イエスが言うところの天の国の有様である。

天の国、つまり、霊界の有様をいう。
この世、この次元では、物質は、あるものだけである。しかし、霊界は、想念の世界であるから、物質に似せた物は、いくらでも増える。というより、思えば、何でも目の前に現れる世界である。
イエスは、大衆を異次元の世界に誘導したのである。

青草の生える、その場の霊界にイエスは大衆を次元移動した。
これが真相である。

科学的な言い方を好む人には、集団催眠だと言う。
しかし、残ったパンは、どうだろうか。
聖書には、その後のことは、何も書いていない。
群集に上げたのか・・・
弟子たちが、もって行ったとは、書かれていない。

霊界からの物を、この次元に持ち込むことが出来る。
四国の神道家、宮地という方は、生きながら霊界に出入りして、霊界の物を持ってきている。

聖書を読み込むためには、霊学が必要である。
奇跡は無かっただの、神学的に云々だの、教会の手前勝手な教義にこじつけるた解釈は、無いも同然である。

キリストの目になって、読み込むことである。
とすると、大変な霊界能力者であったといえる。
まさに、神の子といってよい。

新興宗教の教祖には、奇跡的な話がつき物であるが、イエス以上の力のある者は、皆無である。
ただし、イエス以前、500年前には、インドに仏陀が現れている。
この二人を持って、以後の宗教の根本が出来た。
イスラムのムハンマドは、別物である。

「それから、イエスは、すぐに弟子たちを舟にのせ、ご自分が人々を帰らせている間に、向かいのベトサイドのほうに、先に行けとお命じになった。人々を去らせてのちイエスは、祈るために山にいかれた。」
私は、感動するのである。
矢張り、弟子たちは、残りのパンを持たなかった。
そして、イエスは、祈るために、山にいかれたとある。
ここに、重大な秘密がある。

イエスは祈るために山に行くのである。
天地が滅びても、私の言葉は滅ぶことなしと言う、イエスが祈る。
イエスの祈りとは、どんなものだったのか。

大和言葉では、いのり、とは、い、のり、と分けられる。
イとは、受け入れるという意味。
のりとは、宣ることである。
まず、天地の神々を受け入れて、彼らに宣るのである。
宣るとは、述べるのである。何をか。言葉である。
その言葉は、言霊であり、神である。神に向かい、言葉である神を宣る。
祈りとは、呼応である。

しかし、仏陀、イエスの祈りとは、瞑想を言う。
この瞑想とは、何か。
沈黙のうちに宿る思い。それが、宇宙とつながるという人もいる。

実は、誰もが、無意識に瞑想を行っていることに気づかない。その程度の差はあれ、瞑想しているのである。
これを説明するには、多くの言葉が必要なため、省略する。

いずれ、ゲッセマニの祈りで、イエスの祈りを観ることにする。



posted by 天山 at 00:00| キリスト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。