2007年06月19日

クラシックファンのアホ振り

ソプラノ辻友子のリサイタルを、福岡で開催した。
平日の昼間であるから、多くのお客様は、期待しなかったが、80数名ほどが来られた。

終了後、数日を経て、こんな話が伝わってきた。
クラシックだと思って言ったが、クラシックの曲がなかったというものである。

プログラムは、日本の歌であった。
半分は、日本歌曲であり、三分の一は、万葉集である。
古典である。
それが、日本の歌だと、クラシックではないと言うあたりは、アホである。
要するに、クラシックファンというが、クラシック音楽を、洋楽のみに捉えるのである。
訳の解らない、外国の歌であれば、クラシックだと思うあたりは、救いようがない。

シャンソンなども、クラシックの部類にいれる。勿論、フランスの演歌であるから、クラシックでもいいが、兎に角、知らない。
何も知らない。

クラシックとは、古典的、日本での最初のクラシック音楽とは、ヨーロッパの18世紀後半からの古典派、浪漫派あたりを言った。しかし、この区分けも、実は、音楽ではなく、美術界のものである。
それから、バロックや、古楽が出てきた。

外国語だとクラシックというイメージしか持たないということは、学校教育で、何を教えていたのかということである。
まあ、それはいい。

しかし、歌曲は別にして、万葉集を聴くなどとは、他のコンサートではないもの。
それだけで、お金を払った価値がある。
それを知らない。
豚に真珠である。

勿論、中には、初めていらして、感激し、もっと多くの方に来ていただきたいと、私に訴えていたご婦人もいた。

だから、夜の部の、音楽は心にやさしいコンサートで、最後に、私が演歌の「王将」を歌った時に、10名ほどの人が席を立った。
演歌を聴けば、駄目になるとでも、思ったのであろう。
王将は、西條八十の作詞である。彼は、早稲田大学のドイツ文学の教授であり、詩人であもある。しかし、歌謡曲の作詞を1000曲ほども手掛けた。
ある人が、先生は、どうして俗曲の作詞をするのかと問うと、多くの人の唇に歌う歌を書くことは、素晴らしいことだと答えた。
実は、この王将を超えるヒット曲は、未だに無い。
その歴史的背景などを書けば、長くなるので省略するが、意味があって私は歌うのである。

その説明を聞かずに、立った、クラシックファンというアホである。

その後、しゃぼんだま、という童謡を歌い、私の作詞の、祈りという曲を歌った。
しゃぼんだまを歌うのは、千の風という歌が流行り、嘆かわしいと思い、日本人の死に対する伝統を、しゃぼんだという歌を通して、語りたかったのである。

クラシックファンという者どもの、頑なな観念には、辟易する。
彼らは、知らないが、知った振りをするのである。そして、堂々と、恥ずかしげも無く、批判し、批評するという、愚劣である。

勿論、それは、クラシック音楽を紹介する、プロのクラシック音楽家の最大の汚点である。
哀れというしかない。



posted by 天山 at 00:00| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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