2007年06月17日

イスラム9

そこで、もっと深く、アッラーの神とは、何かと問う。

万物を無から作り出した創造主。
一切を意のままにする絶対意志を持つもの。
あらゆるものが奴隷として仕え、主として崇められる超越的支配者。

コーランを読まずとも、旧約聖書に親しんだ私には、よく理解できる。
旧約の神、ヤウエの神である。セム的人格神である。

しかし、それだけではなかった。
アッラーには、アラビア地域に、また、別の一面を持つのである。
それは、イスラム以前のジャーヒリーヤ時代、無道時代と言われるアラブの宗教生活における神の特別の存在感があった。

このジャーヒリーヤ時代のアッラーの神を見なければ、イスラムのアッラーも、見えない。
それでは、その頃のアッラーの神とは、如何なる神だったのか。

ムハンマドは、新しい宗教を興したのではない。
イスラムの神、アッラーは、新しい神ではない。
誰もが知る、当たり前の神の名であった。
そして、ジャーヒリーヤ時代のアッラーの神は、旧約聖書のヤウエの神より、慈愛の神の意志も強いのである。
アラブのベトゥインといわれる彼らも、普段は、アッラーの神を意識しないが、何か事があると、その偉大な神、アッラーを思い出し。その名を呼んだ。
いよいよ切羽詰まったときに呼ぶ神の名が、アッラーであった。

コーランには、その彼らの様を描写する箇所が多くある。
「舟に乗っている間は、盛んにアッラーの神に祈り、信仰ただ一筋に誠を尽くすくせに、一旦岸まで無事に送り届けていただくと、とたんに変心して、ほかの神々を拝み出し、せっかくの我等の恩寵を感謝もせず、いい気になってうかれ廻る。いまに見よ。必ず思い知る時が来よう」
我等の恩寵とは、神の言葉である。神的一人称の複数と言われる。旧約の神も、我々という言葉を使う。

ジャーヒリーヤ時代は、諸部族、遊牧民、定住民であれ、それぞれの神を持ち、その神の祭祀を通して特定の地域の宗教に結びつけられていた。
しかし、その地域の神の上に、それらを統括する一大中心地として、メッカの神殿が君臨した。
「神聖月」が来ると、部族間の一切の戦闘行為が止み、人々は、メッカに参集して、盛大な宗教行事を、神殿で執り行うのである。
そして、神殿には、それぞれの部族の神々が、数百を超えて祀られていた。そして、それらの主神として、アッラーは君臨していたのである。

この点では、ジャーヒリーヤ時代も、イスラムも変わらないが、唯一の違いは、ジャーヒリーヤは、多神教である。アッラーは、主神といえど、神々の一人である。しかし、イスラムは、アッラーのみである。
同じく、主としても、両者の間には、全く違う感覚があった。
イスラム、ムハンマドから見れば、アッラーも、偶像の一つになる。これは、許せないことである。

いくらアッラーを最高としても、その下に神々がいるということは、アッラーの高さも相対的なものになる。それでは、意味が違う。
ムハンマドは、アッラーの絶対的な存在を言う。
他の神々の存在により、アッラーが相対としての存在にされることに徹底抗戦する。それが、イスラムである。
アッラーに対峙するものは無い。
アッラーに対峙するものがあることは、許せないのである。だから、イエスキリストの存在を許すことが出来ない。アッラーと対峙するとは、とんでもないことである。
神に、父も子も無い。
神の子とは、何事か。ムハンマドが怒る。
イスラムの大罪は、それである。
アッラーに対峙させるものがあることが、大罪であるから、キリスト教は、イスラムから見れば、大罪を犯しているのである。

「アッラーは他のいかなるものとでも一緒にならべられたら絶対にお赦しにならなぬ。そこまで行かない罪なら、気がお向きになれば、赦しても下さろう。だが、アッラーにならぶものを認めることだけは、赦すべからざる大罪である。」

イスラムの絶対的一神教は、多神教を大罪とする。

ある時、ムスリムの留学生と話をしていて、言われた。
「あなたは、クレージーです」と。そう、私の多神教の考え方である。
その時、私は、キリスト教で、仏教、ブディストで、古神道、日本の神道を信奉するのであると言ったのである。
彼には、それは、全く理解できないことだった。

アラビア語で、神を意味する言葉を、「イラーハ」と言う。
その複数形を「アーリハ」と言う。イスラムでは、それらを、単なる空虚な言葉だと断定する。
ジャーヒリーヤの信仰する神の名も、神の被造物でもなく、単なる空虚な名称だとするのである。

神々は、実体の無い、ただの言葉であり、単なる妄想である。神聖な空間には、唯一の実在として、アッラーのみが存在する。絶対一神教である。

どの宗教を信仰する人でも、それが一番正しいと、思い込む。当然である。
私の神、私の仏が、一番正しいと。
この信じる行為は、実は、単なる偏りであることを知らない。いや、偏れば偏る程、強い信仰であると言う。
日蓮は、迫害されれば、される程、正しい信仰であると信じきった。
拷問を受け、殉教することを善しとした、キリシタンもである。
実に、観念とは、恐ろしいものである。

しかし、霊学から言う。
神を創造するのは、自然である。
風吹けば風に、雨降れば雨に、日が照れば、日に、ただ、淡々として、自然は、それを写す。自らの存在を何一つ、変化させることなく、あるべきように在る。
あらゆるものは、自然の被造物である。
この人間もそうである。
そして、何も説くことがない。
ゆえに、私も説くことを、しない。
霊学といえども、説けば、嘘になる。



posted by 天山 at 00:00| イスラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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